『D諷意茶譚 百人一首は百人秀歌が元にある』
                                                      七重誠治

 前号(小倉百人一首)にもうすこし諷意を加えておきたい。豊前国の戦国大名であった宇都宮鎮房は城井谷城主で城井鎮房(きいしげふさ)とも言っていた。父長房は本家筋の下野宇都宮氏の内紛に心を砕いていたため、豊前は専ら鎮房が管理していた。時は戦国時代。豊前の国の統治構造が陶隆房、大友宗麟、薩摩の島津義久と言った武将らの思惑で乱れ九州一帯は騒然としてきた。台頭する者あり、沈む者ありで鎮房も誰に仕えたらいいか翻弄された。秀吉の天下となったことで勢力図が変わり宇都宮家は良からぬ方向へ運命が動いた。
 さて平安時代、百人一首を編んだ藤原定家は息子為家の義父(宇都宮頼綱)に頼まれて宇都宮家の別荘小倉山荘の襖に張り付ける歌色紙を書いた、ということは前回の通り。「小倉山荘色紙和歌」とも呼ばれる。この色紙は安土桃山時代になると大変な人気で茶席に良く掛けられた。人気があるゆえに秀吉は横恋慕したのである。しかし数百年の間に散逸してその時代には30枚程度になっていたらしい。あの古今集をベストセラーにまで高めた宗祇にも一部わたっていたという。ともあれ人気は衰えず江戸のどの時代かは定かでないが、一枚100両を超していたともいわれる。現在だって何千万か、かなりの金高になっているだろう。
 しかしこの百人一首、定家没年(1241)後100年余の間、誰にも知られていなかった。連歌師で古典研究者でもあった飯尾宗祇の尽力により一気に普及したのが室町中期頃である。飯尾宗祇と言えば、古今伝授の普及にも尽力し、出身地の郡上八幡を古今伝授の里というほどである。宗祇水の名水でも知られる。
 この100年の空白が曲者で、推測にすぎないが、当初は撰者の定家の歌が100番目であったと思うのである。これを当時は「百人秀歌」と言った。それが、100猶年後、宗祇の力で有名になったことで、3首が入れ替わった。定家の従兄で寂蓮の養子、家隆が98番、風そよぐ・・、後鳥羽院が99番、人も惜し・・、順徳院が100番、ももしきや・・となる。時代順からすると、定家の後になるから定家の歌を97番目に持ってきた。100首にするにはすでに撰んである中から3首(3人)を抜く必要があった。その対称になった人が、一条院、権中納言国信(源国信)、権中納言長方(藤原長方)の3人。時代から推察するとこの人たちは、60番代後半から80番目位になる。
 長方は定家の従兄で23歳年長である。因みに長方の歌は、
 ながらへば我が世の春の思ひ出にかたるばかりの花桜かな。            
                       
                  2014年7月4日
                                                     (六敬庵主人
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