『C諷意茶譚 真田幸村と越前松平忠直
                                                      七重誠治

 黒田長政は幼少期の名前を松寿丸と言った。あの時代の武将の子は大体何々丸と言っている。その心は、おまる、からの呼び名らしい。どうでもいいことだが、幼い子供の象徴がおまると考えれば素直に頷ける。
 松寿丸は官兵衛の嫡子で信長に差し出した人質である。ところが、信長は、官兵衛が荒木村重に寝返ったと早とちり、松寿丸の首を刎ねろと命じる。秀吉は異を唱えるが信長は聞かない。秀吉お抱えの軍師竹中半兵衛が、それがしがひきうけましょう、といって松寿丸を預かる。もとより半兵衛は画策あってのことで松寿丸を家臣の屋敷に匿うのである。そこが岐阜県の垂井、現在の五明稲荷神社。松寿丸が後にその時の感謝の気持ちを込めて植えたとされる銀杏が現在も樹齢420年の生命を維持している。長政は銀杏の生命力にあやかって植樹したのであろう。銀杏と言えば裏千家を象徴する。
 官兵衛の軍師としての戦法は話し合いによる解決である。しかし、ただ一つ、宇都宮鎮房については、秀吉の遺恨に操られてか、かなり酷いことをしている。
 宇都宮家は頼朝の時代からすでに400年にわたって支配してきた豊前の国主。ことは秀吉の九州征伐に始まる。黒田父子は秀吉の参謀として働いていた。官兵衛は豊前国中津12万石の大守。宇都宮家は新参の黒田家とそりが合わない。秀吉の旗下に一旦は収まるが、にわか国主の黒田家の為になれない。これを見透かした秀吉は、宇都宮家を伊予国へ転封させると同時に先祖伝来の「小倉色紙」の引き渡しを命じる。家宝の小倉色紙を手放すなど考えられない鎮房はこれを拒否。家臣も同調、あちこちで一揆をおこして抵抗した。黒田父子はこれの鎮静に動くが、地の利悪く鎮房に上手に戦われ苦戦する。そこで官兵衛は得意の知略をもちいて領地安堵と姫の人質を条件に和議を持ちかける。鎮房は信用し長政の招きによりわずかの伴だけで中津城に入った。ところが官兵衛から謀略を授けられていた長政は、酒宴の席で鎮房を謀殺してしまう。一族郎党と共に鎮房の父長房も殺害され、人質に差し出していた姫は磔にされた。
 こうして宇都宮家は滅びてしまうが、代わりに小倉色紙は連綿とその価値を維持し、茶席の軸がけとして今も茶人の垂涎の的となっている。
 小倉色紙は藤原定家が撰んだ秀作和歌百首。定家の嫡男為家は宇都宮家の娘婿である。これが縁で宇都宮氏(頼綱)は京都の別荘小倉山荘の襖に張りこむ色紙を定家に依頼した。これが百人一首のはじまり。依頼主の宇都宮頼綱は鎌倉幕府の権力争いに嫌気をさして出家、蓮生と号した。
            
            
  淡交社発行 茶道美術鑑賞辞典より
                       
                  2014年6月17日
                                                     (六敬庵主人
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