『B諷意茶譚  真田幸村と越前松平忠直
                                                      七重誠治
  来年の大河ドラマは真田幸村と決まったようだ。そうと聞いて書いてみたくなったことがある。初花肩衝茶入である。
 なお、幸村は通称名で本名は信繁。幸村と言われるようになったのは、寛文12年(1672)成立の難波戦記がベストセラーとなってからとされる。余りにこの名が普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集にまで幸村が採用されているということである。
 徳川300年の基礎を築いた家康は、その中
心的な遺訓を家臣の忠誠心に求め、それこそが幕府政治の骨格を成した「武士の鑑」であった。
 真田幸村は大阪夏の陣で豊臣方についた。戦い上手であっ幸村は戦国時代最後の武将とされる。大軍で囲った家康といえども侮れなかった。ゆえに馬印を倒されるという三方が原以来の苦戦を強いられる。
 幸村の首をあげたのが、家康の孫(結城秀康の長男)である越前国北庄68万石の松平忠直である。忠直はこの大功をもって1617年、従三位越前の守に任ぜられている。
 問題はこれから後である。忠直はすでに68万石の大大名である。孫といえども家康は身内を厚遇しはしなかった。ただひとつ名器と名高い初花肩衝を与えただけである。当の忠直は幸村の首をあげた自負がある。家臣に与える領地がない、とわめいたばかりか、初花肩衝を砕いてしまう。ところが実際は代わりの壺であった。狂言を演じて家康の気を惹いたのである。この不遜は参勤を怠るなど家康死後も続いた。ついに幕府から、「乱心」と見なされ1623年改易され豊後国萩原に流されてしまう。北庄は忠直の弟忠昌が継いだ。
 大阪夏の陣より徳川幕府安泰の骨格をなしたものが、武士の鑑とした忠誠心であった。敵方の将、にっくき筈の幸村を武士の鑑とまで高めて歴史に残したのは、幸村の忠誠心を徳川の施政に利用したのだと解釈できる。武士の鑑をより際立たせるためには身内に厳しくする必要があった。忠直はうってつけの材料であった、というわけ。
 初花茶入は、姿かたちすべてが完璧な出来栄えとされる。この茶入は完ぺきであるが故か、数奇な運命をたどる。まず信長に愛されたのが運命のはじまり。本能寺で光秀に奪われ、3日天下の悪戯で一時行方不明、蒲郡辺りで家康に献上した者がおり、小牧長久手の戦いで家康は和睦の手土産として秀吉に差し出している。関ヶ原では宇喜多秀家がこれを懐に島津に敗走、島津に諭され茶入を手土産に家康に詫びを入れるが、切腹を免れただけで八丈島に流されている。いずれにしても、夏の陣の時は徳川の手にあった。
 茶入をむすぶ二人の運命は、片や大河ドラマの主人公に方や乱心者としていまだに冷たい扱いである。            
                 
                  
茶道美術鑑賞辞典より
                       
                  2014年5月29日
                                                     (六敬庵主人
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