『復元した名古屋城本丸御殿を観てきて思ったこと』
                                                      七重誠治

  先ごろ、復元したばかりの名古屋城本丸御殿を見物した。400年前の尾張徳川家初代義直が自らの住まいとして建てた書院造りである。
 復元を可能にしたのは用意周到に保存されていた資料であった。空襲を予測してあらかじめ疎開させていた文化的遺産は障壁画だけでも1000枚以上、昭和初期に調査・計測によって残された実測図が109枚、写真や資料等々である。これらの第一級の資料をもとに様々な分野の専門家の協力を得て初めて成し得た事業である。
 尾張藩は徳川御三家のひとつ。それだけに幕末期は、幕府の御用金を支える役割もあった。薩長を中心とした新勢力が討幕に動き、風雲急を告げる中で尾張は揺れた。幕府は形勢不利な状況に追い込まれ、徳川を支えた財界筋も落ち目の徳川に積極的になれない。御用金の工面に苦労し、結果家財道具の売却に奔った。たとえば、将軍家光の娘千代姫が尾張徳川2代光友に嫁いだ時の茶道具の一つ純金製の皆具を売ろうとした。ところが、葵の紋が見えすぎちゃって売れない。尾張藩は討幕か佐幕か2派に分かれよじれによじれた。元より尾張徳川は勤皇の思想。大政奉還という歴史の節目に佐幕派は弾圧された。青松葉事件である。官軍の通行をたやすくしたのも、こうした事情があったからに他ならない。
 幕末から明治、昭和に至るまで尾張徳川家は苦難の連続であった。その苦難の極めは、やはり先の大戦であろう。城郭建築として昭和5年に国宝第一号に指定されていた天守閣を御殿ともども戦火で失ってしまったのである。尾張名古屋は城でもつと戯れていた市民の嘆きは大きい。
 苦難のもう一つは、軍備のための貴金属供出令。あの皆具も供出の対象とされた。尾張徳川家はお国の為と覚悟を決め、せめてもの見おさめにと市民に展示した。見学者は長蛇の列をなしたという。ところがこの展示のさなかに終戦を迎えた。日本は進駐軍の占領するところとなった。このどさくさにとっさの機転をきかせた者がいる。夜隠に紛れ大八車で美術館に運び込んだのである。進駐軍は美術館のものまで取り上げはしなかった。いくら敗戦国とはいえ、日本文化を否定するものではない。こうして現在もこの台子は徳川美術館に大切に保存されているのである。
 動かすこともならず、戦火にさらされたままの建造物はあえなく焼失したが、尾張名古屋は城でもつを真骨頂に名古屋人の強い願いから天守閣は昭和34年、鉄筋コンクリートで再建された。
 今回、天守閣にそうように本丸御殿が再興され、第3期工事までの2018年にはすべての工事が完工する見通しと言う。
 芸どころ名古屋は文化に対しても極めて独特でクールである。            
                       
                  2014年4月23日
                                                     (六敬庵主人
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