『古写経逍遙 その3
        − 界の周辺 −
                                   安  裕明

 相も変わらず古写経探しを続けている。さて、古写経は字姿が一番の鑑賞ポイントだが、切の場合、経名・書写年代・筆者が不明なこともあって様々な視点から見る必要がある。経名はネット検索できるが書写年代と筆者は難しい。自分の眼で見当をつける時のヒントになるかと近頃は界線に目が行く。界は木簡・竹簡に文書が書かれていた名残で、界の1行が一本の木簡・竹簡に相当する。界線には無界・墨朱金銀などの色の違い・二重三重の多重界など様々な種類があり、線の太さや引き方に各時代の流行や特色がある。例えば界幅に関連して一紙に書写する行数は、唐経では28行が多く、天平の五月一日経は25行が多い。奈良後期の薬師寺経や善光朱印経は界幅が広く一紙24行が多い。例外もあるが経切の出自や書写年代を推定する傍証の一つにはなる。今回は界線について考えてみたい。

1 無界
 日本の写経で無界なのは和銅経・神亀経(ともに長屋王発願の大般若経)だけというのが通説である。しかし、日本の写経で本当に和銅・神亀経以外の無界経は存在しないのだろうか?どうも無界で和銅・神亀経でなければ即隋経としてしまう安易な考え方があるようだ。無界で大般若経以外のものがあれば、いきなり隋経とはせず、日本・中国・朝鮮の様々な時代の写経を検討してみる必要があると思う。つい最近も隋経なるものを入手した。天地界のみで縦界がない。本当に隋経なのという素朴な疑問がわいた。書法的に隋の感じがしないからだ。かつて天地界だけあって縦界がない紺紙金字経を見たことがあり、それは明らかに時代の下がるものであった。やはり1つの観点から書写年代を推定するのは危険で総合的に検討すべきだろう。
 さて私の無界経への興味は和銅経に始まる。和銅経は法華義疏・金剛場陀羅尼経・浄名玄論等を除けば本邦最古の紀年のある写経で、現存するもの二百余帖(転読のため折帖に改装されている)、中でも巻第345の小ぶりで引き締まった字姿に憧れ、こんな経切をいつかは入手したいと思い続けてきた。そのせいか私の手元には2片の無界経の断巻がある。(前述の天地界だけのものは除く)どちらも大般若経ではない。1片は僧伽タ(口へんにタク)経、もう1片は妙法蓮華経である。そのうち僧伽タ(口へんにタク)経は@字が小ぶりなこと、A1行あたりの文字数が18〜19字で古い面影が残っていること、B紙が1寸あたりの
簀目(すのこめ)が30近く確認できる隋・唐時代の紙の特徴を示していること等から隋唐経である可能性が高い。またこの切には見えにくいが胡粉による白点が施されており、平安・鎌倉の学僧によって研究された跡が見え、出土経ではなく人から人に伝わった伝世経であることがわかる。
 この切は古美術祭の一隅の経切の束の中にあった。「無界経」とだけ書かれた札にかなりの値がついていたが高いとは思わなかった。他の経切も一通り見る間、他の客に見つからないように箱の下に隠しておき、店主にも何気ないふりをしながら(内心では興奮して)経切を見ている自分が妙に可笑しかった。経文が大般若経ではなく僧伽タ(口へんにタク)経と分かったのは帰宅後のこと。調べた結果この切は植村和堂氏遺愛の隋経(二玄社刊「写経《見方と習い方》」所載。)の連れであることが判明した。どちらも文言は僧伽タ(口へんにタク)経巻二であり、書法・訓点・紙質などから連れであることは間違いない。
 さて、植村氏はこれを隋経としたが、この時代の日中交流には中継地の新羅・百済・高句麗など半島諸国が重要な役割を果たしている。仏教初伝が百済の聖明王によってもたらされたことを考えれば古代朝鮮の写経が日本に来ている可能性は高い。正倉院事務所蔵の聖語蔵経巻の隋経の中に似た書風のものがあり一応隋経としておきたいが、聖語蔵の隋唐経とされていた経巻の中の一巻は新羅経であったという報告(正倉院紀要第28号 山本信吉「聖語蔵『大方廣佛華厳経自巻七十二至巻八十』の書誌的考察」 )もあるので、わずかながら古代朝鮮の写経である可能性を残しておきたい。
 もう1片は紙質から年代は不明だが朝鮮の写経と考えている。どちらもC
14よる年代測定ができればもう少し出自が明らかにできるだろう。

2 墨界
 我が国の天平経の墨界は薄く細く美しい。お粗末な界線も見ることもあるが、平均的には界幅も揃って美しい。写経所の装黄生による職人技の極致だと思う。手を抜いて引くこともできたはずだが、仏教の国家的受容という使命感からだろうか、この時代の界線には他の時代の界線にはない緊張感が漂う。こんな界線を引かれたら写経生もいい加減な字は書けまい。二十数蔵もの一切経書写が組織的に行われた奈良時代には多くの熟練した技術が育った。界線もその一つで私が天平経に惹かれるのは写経生の優れた書法の技量だけでなく、写経に携わる人々の仕事の完成度に惹かれるからだと思う。平安になると界は普通の線になり、鎌倉・室町期になると、曲がったり波打ったりする雑な界線も多くなる。中国や朝鮮の写経は過眼資料が少なく、各時代の字姿や界線の傾向についての判断は控えるが、中国でも膨大な写経が行われた隋から唐の長安宮廷写経など中央の写経の界線は細く美しく引かれたものが多く、美しい写経体の字姿とよく調和している。

3 朱界
 珍しいのは朱界である。なぜ朱で界を引くのだろう?寺院の門・橋などのに
()塗り・弁柄(べんがら)塗りは防腐・防虫効果とともに朱は血の色で生命力を象徴し、永く朽ち果てることのないようにとの祈りが込められてると言う。又、魔除けの意味があったとも言う。同じ意味が朱界にもあるのだろうか?ご存知の方の御教示を願いたい。
 朱界の早い例は仏典ではなく紙以前の前漢の帛書「老子乙本」にある。近くは清朝の名家の多字数の作品にも朱罫のものがある。写経では宋代の一群(金粟山蔵経など)と我が国の七ツ寺一切経などが著名である。七ツ寺経は舶載された宋経の影響と思われる。最近、これまで宋代とされてきた華厳経がより古い渤海の大蔵経の一部であるという説を韓国の研究者が唱え、昨年暮れのオークションにこの華厳経が出て、高額で落札された。(私も入札したが手も足も出なかった)
 私の所にも朱界経の切が2点ある。1つは
(だい)(はつ)()(はん)(ぎょう)巻三の断巻で、近衛家陽明文庫の大手鑑に連れが捺してある。解説はこの朱界経を天平経だとしている。確かに熟練した写経生の手になるものであろう、天平経に近い整った字姿をしている。しかし天平期の朱界経は見たことがない。判断する物差しがなく、なんとなく日本の写経ではない気もする。横画の収筆部を強く抑えてから勢いよく上方に抜く筆遣いは宋経や高麗経のそれに近い。七ツ寺一切経とは明らかに紙質・書風が異なる。界線は金粟山蔵経よりも細く、朱の色も古色がある。初唐(天平)までは遡れないだろうが宋でもかなり時代が上るものかも知れない。古代朝鮮(新羅〜渤海)の写経かも知れない。これもC14による年代測定をお願いしており結果が待たれる。もう一片は妙法蓮華経切でありおそらく宋代の朱界経であろう。

4 金界・銀界・多重界・截金界
 これらについては、高麗経の子持界のように誰でもわかるものもあるが、まだ手持ちの資料は少なく軽々に語ることは出来ない。私が装飾経などにも目を向けることになれば自然に集まってくるだろう。その時に報告するとして今回は割愛する。

5 字数・行数
 界に関連して一行の字数も興味深い。隋以前は一行の字数が一定せず、中には20字を超えるものもあった。経・律・論の注釈は字数が多くなるので、小字で界幅が狭く一行の字数も24を越えるものがある。経・律・論は6世紀後半(六朝末から隋初)には一行17字に定型化していく。なぜ17字なのか。釈迦の生涯に17が聖なる数という逸話があるのか。中国に17が聖なる数という風習があるのか。幾つか説はあるが私を納得させるものではなかった。また、17字に定型化した後にも一行16字という破格もある。古写経逍遙2で述べた四分律刪繁補闕行事鈔がその例である。16字詰にも何か意味があるのかも知れない。重ねて識者の御教示を乞いたい。
 高麗版大蔵経は一行14字に刷られている。それを底本としたと思われる至元十三年(1276)奥書の紺紙銀字文殊師利問菩提経や泰定二年(1325)奥書の紺紙銀字阿育王太子法益壊目因縁経(ともに京都国立博物館)なども一行14字で書写している。それにしても日本の寺には多くの高麗経が伝存している。手鑑にも大職冠鎌足公の極めのある経切(多武峰談山神社に伝わったのでゆかりの鎌足を筆者に充てたのだろう)や横川切など多くの高麗経が捺されている。現在の高麗経の評価はそれほど低くはないが、手鑑が盛んに制作された江戸初期には高僧の筆跡として更に高い評価を得ていたことがわかる。その高麗経における一行14字書写にも何か理由があるのだろう。朝鮮の写経についてはもっと研究されるべきだ。

 調べれば調べる程わからないことが新たに生まれ、見たことのない経切がどんどん出てくる。この日本にどれ程多くの経切が眠っているのだろう、次に何が出てくるのだろうとワクワクしている。1000年以上を生き抜いてきた経切を正しく後世に伝えるために数多くの経切を見て感性を磨き、多くの文献を読んで先人の智慧を引き継いでいきたい。
                       
2008年11月5日
                           (茨城県立多賀高等学校教諭)




最初のページに戻る

無界経切
僧伽タ(口へんにタク)経巻第二

朱界経切
大般涅槃経巻第三