『続 丹波の頃  忘れがたい光景』

角 岡 秀 行  

武家屋門長良川

 昨年のいつ頃だったか、NHKラジオ朝のインタビュー番組で、後に丹波竜タンバリュウと命名される恐竜の化石を発見された方二人が出演され、発見場所の篠山川のこと、生まれ育った丹波地方のことなど話しておられた。かつて何度も訪れた丹波の馴染みある地名、何気なしに見ていたあの川から恐竜の化石が発見されたことの驚きや、山深く人心素朴な人々のことなど、たくさんの思い出が甦る中に、三十余年を経た今も忘れられない光景がある。大げさなことをと思われるかもしれないが、時代がかくも品下がってきた今、尚のこと古き時代の良き姿として残っている。

 十代最後の一年を京都で暮らした私は、おかげでと云うべきであろう、古社寺や考古学に魅かれる様になり、さらに奈良の日吉館を知るに及んで関心事はそれ等のことだけになってしまった。京都では絵画や建築・庭園に多く触れ、奈良では仏像・遺蹟巡りが主となってきた。何も知らぬまゝ接していくうちに、どうやら自分は白鳳・天平期の作よりも、飛鳥時代の作が好きであることに気づいた。仏教伝来と共に渡来した仏像を大和の人々が作ろうとした時、未熟を補って余りある古拙の美が生まれた。完成度で云えばその後の造像技術とは比ぶべくもないが、物の始まりだけが有する精神性に満ちた造型がそこにはある。また同様の精神性を有する像として、唐招提寺の、通称トルソーと呼ばれる如来像にも同質の精神性を感じた。首部を失ったこの像は、余程強い力を加えられたのだろう、折れた時の名残りの材が鋭く立ち上がり、見る者に強い緊迫感を与える。今は収蔵庫に安置されているが、講堂に在った時の姿は一際美しかった。この像に接したことが破損物の美を知ることになり、達身寺・威徳寺の存在を知る縁ともなった。
 奈良へ足繁く通い始めて程なく、様々な人の影響で焼物に興味が湧いていた私は、近江へ出掛けた時に信楽で初めて作陶を体験した。これがきっかけで焼物に夢中になった私は、焼物が生活の中心となり、陶工生活を選ぶまでになってゆくが、それはまだ先のこと。然し焼物に関心を持ったことで丹波焼きへも目を向けることになり、窯場の見学を含むことが丹波地方への関心を強くしたのではなかったか。二十代前半で若造の私は、人が余り足を向けない所へ行くことで格好をつけたい気もあったろう。結果としてプラスに作用してくれたが、今思えばお粗末な動機であった。

丹波型民家

 初の丹波行きに際し、篠山市とその東部地域を選んだ理由は、篠山は史跡の多い城下町であること、丹波焼きの立杭へ行くのに足場となることなどがあった。この地域は、実を云えばさして有名な古社寺や遺蹟があるわけではない。しいていえば、大和王権と深い関係があるとされる雲部車塚古墳の存在が知られているくらいであろう。只、古民家が多く残っていることは、大いに魅力であったが、いずれにしろ特に深い考えがあって選んだ地域ではない。
 1973年(昭和48年)晩秋の小雨が降る肌寒い中、初めて訪れる街への期待で一杯だった私は、篠山市内へのバス社中から驚く様な光景を目にした。商店街のとある肉屋の店頭に、猪が数頭吊り下げられていたのだ。宿となる国民宿舎へ荷物を置き、先の肉屋まで戻ってみると、牛・豚・鶏肉に混じって猪肉が売られていた。冬の名物牡丹鍋の肉として愛好されているのだから、売られているのは当前かもしれないが、店頭に吊り下げられた猪は随分インパクトのある光景で、このことあるが故に丹波へ行った最初を、はっきり記憶することになった。
 次いで篠山城周辺を見学に行き、掘割沿いに残る武家屋敷、見事な石垣や馬出しなどを見て、河原町の商家群として紹介される通りへ行く。江戸時代末から明治時代の建物が多く残る河原町に丹波古陶館があり、約七百点の蒐集品から常時数十点が陳列されている。またこの通りには間口の広い骨董屋さんがあり、江戸初期の、水指に良さ気な壷を買った思い出がある。その頃は朝倉山椒の壷やイッチン描きの徳利などが店頭に数多く見られ、民芸館レベルとはいかないまでも、準ずる物がまだ買えた楽しい時代だったが、私にそれを買う力がなかったのは残念だった。

篠山城址

 翌日、篠山市東部の中心地福住行きのバスに乗り、点在する丹波型民家を楽しみつゝ磯宮八幡神社へ行く。当時使用した五万分の一地図を見ると、足を運んだ箇所に赤丸が印してあり、ちょっとした書き込みがあるが、この神社に関しては何も思い出せないから、次の西光寺へ行く。西光寺は重要文化財の薬師如来及び四天王像が安置されている。仏像は収蔵庫に安置され、地元の方が交代の当番制で鍵を管理されているので、その家を尋ねて開けていただき拝観しながら、「良くこゝの仏像のことがわかりましたな」と云われて、とても嬉しかった。寒い日でもあり、お茶でも飲んで行きなさいと親切を受けたものゝ、先に気を急かされ失礼してしまったが、次いで訪れた波々伯部ホホカベ神社では、社務所で話をうかゞいつゝ茶菓のふるまいを受けた。波々伯部神社の元社は、京都の祇園神社で958年に素戔鳴尊を勧請したと云う。話の途中古びた箱を持ち出され、「あまりお見せしないのだが・・・・」と云ゝつゝ取り出されたのは、彩色の状態が良い木造懸仏であった。裏面に墨書がしてあり、応永(1394〜1428)の年号が記してあったように思う。今思えば、かなりの名品だった・・・・気がする。
 波々伯部神社の北に広がる小山の向こう側に回れば、雲部車塚古墳がある。周濠を有する全長143mの前方後円墳で、その規模から丹波国造の墓ではないかとの見解が有力である。
 車塚古墳から北へ約2キロ、櫛岩窓神社を目指す。当神社の裏山々頂には古代信仰の盤石が在り、古くからこの地が重要視されてきたことがうかがわれる。当神社の御神体三体は国の重要文化財であるが、勿論拝観は不可。先の波々伯部神社といい、何故に拝観できないことが分かっていながらあの様な山間の僻地まで足を運んだのか。単に人の行かない所を目指すことで自慢したい意識があったにしても、それにしても、だ。晩秋の寒い丹波の山間をトコトコ歩いていた私は一体何を期待していたのだろう。

櫛岩窓神社への道

 丹波で唯一の延喜式名神大社にしては拍子抜けする簡素な櫛岩窓神社を後に、最寄のバス停まで歩いていた時のことだった。一人の老婆が家の前を行きつもどりつしながら、背にした幼子をあやしていた。そこに中学生だろう、学校帰りと思しき女の子が小走りに老婆の前まで来ると、カバンを下げた手を前に揃え、「オバアサマ、タダイマカエリマシタ」の言葉と丁寧なお辞儀を残し、家の中へ入り込んで行くではないか。「お婆ちゃん、只今」でも、「帰ったよ」でもなく、「オバアサマ タダイマカエリマシタ」 背筋を伸ばし、いかにも自然な辞儀。私は今もこの光景を忘れないし、誰かと話をしていて、話題が丹波地方のことに及べば必ずこのことを話す。孫娘であろうその子の挨拶に、幼子をあやしながらも正対して、「オカエリナサイ」の言葉を返すこの光景は、何物にも優る丹波での収穫であり、忘れがたい光景であった。
 その後同地を訪れることがないまゝに三十余年が経過した。この間時代がどの様な変貌を見せたか、今更云うまでもないことであり、恐らく丹波の山中と誰も時代の波を蒙ることなく過ぎたとは思えない。永い歴史の中では幾多の戦乱や天災など、絶望せざるを得ない状況は度々あったと思う。それでも人は立ち直り歴史を紡いできたではないか。私はあの忘れがたい光景を思う時、私達の国は美しくなれることを信じたいと思う。


2008年3月18日
(陶 工)




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