短冊随想‐公家の短冊によせて‐

鈴木崇浩  


 最近、私は人に趣味を訊かれると、無難に「美術鑑賞です。」などと答えることにしている。大体は、「ああ、そうですか。」で終わるのだが、時々、「へえー、どんなジャンルがお好きなんですか?」と訊ねてくださる方もいて、「まあ、どんなジャンルでも(難しくなければ。)。まあ、強いていえば昔の人が書いた書ですかね。」と答えると、大概の方が、いや、十中、八九、「えー、あのくねくねした字が読めるんですか?、すごーい。どうしてですかあ。」とお訊ねになる。このあたりで面倒くさくなって、「ええ、まあ、集めていますから。」とカミングアウトすると、(まあ、っていうことはこの人、オタク?)とここでようやく話が終わるかと思いきや、最近はオタクが認知されてきたらしく、「えー、すごーい、どんなものをお持ちなんですか?」とくるから、「織田信長や、あと、お公家さんの短冊とか・・・」と答えると、(絶対、こいつが持っているのはニセモノちゃう?)という面持ちで、「すごーい、じゃあ、テレビのアノ番組にだしてみましょうよ。」と宣う。(いいえ、結構です。私のコレクションは私が長年、こだわりを持って、それなりの身銭を切って集めていますから。)と、これを言ってしまえばミもフタもないので苦笑い。

 さて、前置きが長くなったが、私の一番のこだわり、これは短冊収集、とくに公家の短冊である。古い話ではあるが、初めて短冊を買ったのは中学3年のときであるから今からおよそ20数年前。元々、司馬遼太郎の小説が好きな私は、小説のなかにでてきた公家の九条道孝(くじょう みちたか:1839〜1906。)の短冊をみつけて、(すごい、小説にでてくる人の書いたものが手に入るなんて。)小説のなかの人物が、ずっと身近に感じられた瞬間であった。小説のなかで、なんとなく心細そうなに戊辰戦争へでかけて行くお公家さんのイメージが、堂々たる「奥羽鎮撫総督」を彷彿とさせる堂々としたその書。いみじくも司馬遼太郎が『最後の将軍』で水戸の烈公(斉昭)に語らせる慶喜のイメージ、『書は人物を表す』という言葉を実感し、私の短冊遍歴はここから始まった。以来、二十幾星霜、短冊ばかり集めている。では、なぜ、公家の短冊なのか?理由は色々あるが、まず、第一に安かった。戦前は結構、評価が高かった公家の短冊も個々の人物の活躍が地味だったため、周囲の感心は薄かった(今では時折茶会などでも使用されるため、一概にそうとはいえないが。)。次に大体の公家の書は下手ではない。日頃から和歌を嗜んだためか、さほど飛びぬけて上手という人物も少ないが、滅茶滅茶へたくそという人も少ない。第三には、身元がはっきりしているという点である。(何それ?)といわれそうだが、場合によってはその大半の家が極近年まで存続しており、その人物がいつ、どこで生まれ、どういう人生を送ったかという記録があるということでもある。短冊を買って、このお公家さん、どういう人だろうと調べるとき便利でもあり、また同時にその人物が生きた時代を想像してみたりもできる。さらには、ニセモノが少ないというメリットもある。勿論、公家の中でも、烏丸光広や近衛信尹といった有名人にはニセモノもある。ただ、それは彼らが教科書に登場するような有名人であるからであって、これが、聞いたこともないような公家の書であればだれも偽作をしないだろう。では、公家は本当に何も活躍することなく歴史の潮流に抗わず、存在に価値を見いだされなかったのかといえば、答えはノーである。公家は政治の実権が武家に移った鎌倉時代以降も、さらにいうならば徳川家康によって『禁中並公家諸法度』で洛中の一角に押し込められた江戸時代にも、歴史の大舞台のそこかしこに「ひょこ。」と顔を出すのである。(ある意味、この表現は間違っているかもしれない。現在の歴史感はすくなくとも歴史が国民のものであるという近現代以降のものであり、為政者の為の歴史感は当然、全く異なったものであったであろう。) まあ、そんな難しい話は横において、歴史を丹念に読み解くと必ず、そこにはなんらかの公家の影が見え隠れするのである。たとえば、本能寺の変のときには近衛前久(さきひさ:寛永の三筆で有名な信尹の父。)や吉田兼見(かねみ)、秀吉の関白就任に際して暗躍した今出川晴季(いまでがわ はれすえ)や、赤穂浪士の原因となった松の廊下の事件-これは元々、京からの勅使を饗応する為の儀礼作法について吉良上野介が浅野内匠頭をネチネチいびったから起きたとまことしやかに言われるが、その際、饗応をうけた柳原資簾(やなぎはら すけかど)や高野保春(たかの やすはる)は同僚の公家達から「なんや、えらいことにならっしゃいましたな。」などとからかわれたかもしれない。最近では幕末モノのドラマに三条実美や姉小路公知(あねがこうじ きんとも:「きんさと」とも。文久3:1863年、朔平門外巽角(通称:猿が辻)で暗殺されている。)などがでてきて多少なりとも公家の認知度が上がったようにも思えるが、単に「暗殺された。」としか描かれないこのワンシーンも、一説によれば、襲われた当初、驚いた家来が公知の太刀を抱えて一目散に逃げたらしく、公知は仕方なく素手で応戦し壮絶な最期を遂げたとか。なかなか気骨のある公家もいたものである。何も幕末に限らず、公家が戦場にでていくことはさほど珍しいことでもなかったらしく、古くは南北朝時代、藤原定家の曾孫、二条為冬(にじょう ためふゆ:〜1335)などは箱根で足利尊氏と戦い戦死しているし。ずっと近いところでは西南戦争へ出征して戦死した難波宗明(なんば むねあき1853〜77。陸軍大尉。)などの公家すらいる。こうした例が案外多いところをみるとどうも、イギリス貴族の専売特許のように思われがちなノブレス オブリージュ(noblesse oblige:高貴なる者の義務)というのは世界共通なのではなかろうか。図らずも公家らしからぬ話となってしまったが、そんな物騒な話でなくとも、明治維新後に賀茂御祖神社(下鴨神社)の宮司になった西洞院信愛(にしのとういん のぶなる:1846〜1904)は剣の達人で明治2(1869)年、大阪の御堂で天覧試合をやっていたりして、並の志士も顔負けの感があり微笑ましい。そんな剣豪が『霜深し』「往く甲斐も絶えて日を経る山陰は 霜さへ深く雲かわしぬる」と詠んでいるのをみるとなんだか微笑ましい気分になってくるのである。日頃は無骨そうみえて実は繊細なのか、繊細にみえて実は剣豪なのかはさだかではないが、過去(歴史上)の人物の一瞬の表情を垣間みるようで、まさに『徒然草』にいうところの『ひとり灯のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするぞ、そよなうなぐさむわざなる』兼好法師の心情はさもあらなん。と想いを馳せる次第である。

2008年3月11日
(医師)




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