『丹波のころ・達身寺』

角 岡 秀 行  

30年以上前の丹波風景

 三十余年も前のこと、焼物の里・立杭を主な目的として、丹波地方へ度々出掛けていた。丹波の名が田舎の代名詞としてまだ通用していた頃で、私は二十代前半、お金は乏しかったが好きな対象に懸ける情熱だけは盛んで、十代後半から興味を抱いた仏教美術や考古学、職業としている焼物等、何かを知るとそれを単に知るに留めておけない気持ちが殊の外強く、今思うと、良くあんなに一生懸命になったものと感心することがある。山深い丹波のさらに奥まった地に、平安時代の初期から山岳修験の場として栄え、やがて消えていった達身寺と威徳寺。百体を越す破損仏や未完の仏像を収蔵する二寺の存在を知った時がそうだった。今なら高速道路を使い四、五時間で行けるだろうが、高速バスで大阪へ行き、福知山線に乗って行った当時のことは良き思い出となり、後に自分なりの美意識を形成するきっかけともなった丹波達身寺へのことを記してみたい。

 破損仏、戦乱や廃仏毀釈などの災禍に遇い、埋められたり、捨てられたり焼かれたりして無惨な状態になった仏像を指す。だがそんな姿になりながら尚美しい、いや一層更に美しくなったと私には見える。然しながら、破損している姿に何らの価値も美も認めぬ人、見出せぬ人が居たとしてもおかしくは無いが、所詮は美意識の違いとしか云えまい。そんな破損仏が兵庫県氷上郡氷上町清住の達身寺に二百体以上、京都府福知山市宮垣の威徳寺に百体以上収蔵されている。1973年(昭和48年)の初秋、二つの寺へ行くべく何度目かの丹波に出掛けた。
 丹波へ行く時は篠山にある国民宿舎を利用するのが常であったが、このときは"円応教"と称する宗教団体の本山宿坊へ泊めて頂いた。理由は宿泊代の安さで、二食付きで二千円くらいでなかったか。朝の謹行も参加の義務は無かったので、とてもありがたかった。たゞし食事は実に質素で、朝は御飯・みそ汁・漬物。夜はこれに煮物(コンニャク)の小鉢が付くだけの、シンプルこゝに極まる内容であった。食べ物のこと故か、これは実にはっきりと覚えている。
 達身寺への道筋は、福知山線石生駅で降り山間の町成松までバスに乗る。この辺り氷上盆地は丹波の奥まった位置になるが、加古川とその支流沿いに水田が開け、さほど奥深さを感じさせない風景が展開している。
 加古川の支流に葛野川と呼ぶ川がある。達身寺はこの川の上流に在るのだが、渡来系氏族の秦氏が居を構えていた山背国葛野郡と同じ名を持つこの土地は、秦氏と関係が有ったと考えられる。秦氏が機織に深く関わっていたことは良く知られていて、丹波布の産地として名高い青垣町佐治が、成松の北十キロ程の所にあることも秦氏の存在を感じる。さらに条里制遺構が残っていること、古墳が数多くあることなどから、古くより展けた土地であることが分る。式内社も点在するし、中世からは公家や寺の荘園として都と深い関わりを持ち、京街道が篠山、柏原、石負、佐治と通り、矢名瀬で福知山から来る山陰道と合流することにも、この辺りの重要性がうかがえる。
 さて成松から達身寺まで約六キロは歩くことになるが、天気は良し風景は絵に描いたような日本の田舎が展開する中、まだたくさん残っていた茅葺きの丹波型民家を見ながら、葛野川に沿って西へ行く。やがて川が北向きになると清住集落が現れ、高台にさゝやかな御堂が見えて達身寺に着く。 御堂裏手の収蔵庫に安置された仏像は、半数が保存修理の為外に出ていた。だから私は全ての仏像を見ることができなかった。寺の伝承に由れば、達身寺は嘗て背後の山中に数十の堂宇を持ち、一大勢力を保持していたタルミ堂がその前身で、織田信長の中国攻めに際して抵抗した為全山が焼かれ、そのまゝ衰退したと云う。その後周辺に疫病が流行した時、荒れ果てた寺に放置されていた仏像を現達身寺に集めて祀り、平癒を祈ったと伝える。恐らくタルミ堂のみならず、廃仏毀釈で周辺各地に放置されていた仏像もこゝに集められたことで、かくも多くの仏像が存在するのではないだろうか。

破損物の数々

 収蔵された仏像中、最も多いのが菩薩像だろう。次いで天部像か。特色があるのは兜跋毘沙門天像が十六体あることが挙げられる。兜跋毘沙門天は寺の山門上に祀られ、守護神としての役割を担う、一寺一体の仏像である。それが十六体有るとなれば、少なくとも十六ヶ寺からの仏像がこゝに寄せられてきたとも考えられる。また中には破損ではなく、制作途中と見られる仏像もあることから、大がかりな仏師集団の存在も推測されている。仮りに仏師集団が居て、この地から周辺の寺へ仏像を供給していたならば、兜跋毘沙門天十六体のこともうなづけ、二百体を越す数量のことも理解できる。破損仏を多量収蔵する寺として、広島県の古保利薬師堂と愛媛県庄部落の観音堂が有るが、いずれも三十体前後ではないかと思う。達身寺が異常に多量であることが分かって頂け様。
 以前私も破損仏を、数体、手元に置いていた。破損の度合いが酷くて、腕も脚部もボロボロだった。しかしなまじ室町や江戸期にお粗末な修理を施されたり、金泥を塗られた仏像よりはるかに清々しい姿をしていた。達身寺の破損仏も同様で、阿弥陀如来に見られるあらわれた木目のお顔の美しさは出色と云えよう。云うなれば破損仏の美しさは人間の歴史が生み出してしまった美であり、その形に不様は無い。
 若かった私が達身寺の破損仏を前にして、何を思い、考えたか覚えていない。が、見たモノが美しかったことは確実であった。信・真・芯のいずれのシンでも構わない、破損仏はシンのみで成立した美の世界であり、世にある数多の美に向かう時、何を大切として向かうべきかを教えてくれた存在であった。

菩薩坐像

 その後近江や大和の古寺巡りが中心となり、傑作の仏像を数多く見ることになる。それ等と破損仏は比ぶべくも無いが、尊いモノとしての価値は同等である。たゞし、破損して尚美しい姿を留めるのは平安までで、写実を目指した鎌倉以降に美が宿らないと見るのは私の偏好だろうか。

※住所は当時の表記に従っている。


2007年7月24日
(陶 工)




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