『古写経逍遙』

安 裕明  

天平寶字3年9月10日
高 赤麻呂 写
中阿含経巻
第11(善光朱印経)断巻

 この7、8年天平写経にはまっている。西に古写経展あれば「のぞみ」に飛び乗って出かけていき、古美術店で「古写経切はありませんか?」というのが口癖になっている。品薄の関東に住む身なれば突然思い立って京に上ること年に数回。(かみさんに内緒なので日帰りも辞さない)よくもまあ続いているなあと思う。しかし、一介の高校教師の身で1200年前の肉筆資料を手にとって鑑賞できるというのは奇蹟に近いと思う。現代まで数多く生き残ってくれた天平写経の生命力なればこそ。この国に生まれた幸せを思う。絵画や焼き物ではこうはいかない。

 この美しい文字を誰が書いたんだろうという素朴な疑問がわく。その多くは写経生の手になるもので筆者は不明である。大聖武・国分寺経・二月堂焼経などを見れば、さぞかし当時最高の書き手が書いたのだろうと思う。中阿含経巻第九の写経生「一難寶郎」などは奥書に名があり江戸時代から著名な写経生であるが、これは例外的なこと。多くは無名の能書が天平写経の担い手であった。正倉院文書等を精査すれば何経の巻幾つだから誰某が写経生であると推定できるものもあるとは思うが。
 桃山から江戸にかけて古筆尊重の気運から手鑑製作が流行した。歌切や消息・短冊等と共に写経の名筆が切られて手鑑に捺され、その多くに極めが付き、天皇・皇族・僧侶など著名な人物の筆跡ということになっている。本来筆者不明が多いはずなので、古写経の極めは曲者だ。
 明らかに奈良時代のものと思われる経切に「弘法大師」の極めが付くことがある。奈良時代から海龍王寺(隅寺)で修行した数多くの留学僧や写経生が写経し奉納した隅寺心経はかなりの数にのぼる。弘法大師も入唐前に隅寺で修行したことから、奈良時代の心経まで弘法大師筆ということになっている。家蔵の天平経と全く同じ筆跡でありながら「弘法大師」の極めが付き、はるかに高額な値のついた経切を見たことがある。偶然差がついたのか、商品価値を高める為の作為か。
 大聖武は宸翰雑集と比較すれば聖武天皇の筆跡ではなく写経生の手になるものである。しかし奈良後期の字粒が大きく線の太い経には大概聖武天皇か魚養の極めが付いている。(魚養の真跡も不明なのに)
 高麗経の極めが大職冠鎌足公であるのは談山神社に伝承したという来歴からだ。同じく焼切(傳伝教大師)のように延暦寺が焼かれた歴史的事実を示す極めを無視することはできないが、一般的に極め札には懐疑的にならざるをえない場合が多い。
 手鑑に捺された経切は一巻として傷のないものは切りにくく、断簡となったものを切った場合が多いはずだ。経名がわからず、明白な根拠のないままに無理に歴史上の人物を伝承筆者に充てた場合が多いと思う。私は極め札は無視して筆跡だけを見ることにしている。(著名人の極めのある経切は高くて買えないのも事実)極めがなくても名筆は名筆。良いものをしっかり見定める眼力を養いたい。
 近頃はインターネットでたやすく経名を検索できる便利な世の中になった。(かつては○○経かなとあたりをつけた経の大正新脩大蔵経の頁を根気よく繰って同文を捜し、経名を確認するしかなかった)経名とその巻数を見つければ、大日本古文書の正倉院文書等から担当した写経生を調べることが出来るものもある。
 かつて、なんとなく惹かれて入手した経切(極めなしで安く購入)をネット検索した結果、中阿含経巻第十一という経名と巻数がわかり、界のサイズや紙質などからそれが善光朱印経の断巻であることを確信し、現存している同巻の奥書から筆者が高赤麻呂であることをつきとめたことがあった。瓦礫の山の中から宝玉を見つけ出した気分である。

 諸行無情は世の倣い、幸か不幸か手鑑や屏風が盛んに崩されている。歌切や経切として単独で市場に出てくる供給源にもなっているが、名物切は高価で売られ、その他は一把一からげで市場に出てくることが多い。先の善光朱印経切のように(極めが無い場合は特に)その一把一からげの中に本当は名品であるのにそれにふさわしい評価を受けない写経が入ってしまう場合がある。はじめはその価値が認知されていても、いつしか価値が見落とされてしまう場合も出てくる。私のような貧書生にとってはこれ程おいしいターゲットはない。しかし、誰もその経切の価値に気がつかない場合は、せっかくこれまで生き残ってきた古写経の名品がただの汚い紙切れになってしまうのだ。名品はそれ相応の評価を得て後世に伝わってほしい。でも、そうなると私の所へはなかなか来てはもらえない。ほんの少しでいいから、価値を見落とされた名品が私の所へも来てほしい。随分身勝手な思いではあるが。
 「平成の古経見たらん」といえば烏滸がましいが、誰でもわかる名品を集めるだけではなく、本来の価値を忘れられてしまった名筆を再発見し、それにふさわしい評価を取り戻すことをやっていきたい。そして、あと二十年あれば1つぐらいは私製の古写経手鑑を作れるかも知れない。そうは思うものの浅学非才・徒手空拳 わからないことは多く先学諸賢のご教導をひたすら願う次第。


2007年6月13日
(茨城県高校教諭)




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