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『妖しい月の夜に』
服部清人
満月の夜になると桜井家の番犬サカエは東の空に向かっておらびます。つまり吠えるのです。サカエという名前は“栄町“の居酒屋から貰ってきたことに由来するのですが、桜井家から見て、栄町は東に位置するので、当初、妻の奈美は
「きっと帰巣本能が働いて、東の方角を見て吠えるのね」
と言っていました。ところが、どうもそうではないようです。
「サカエは満月に向かって吠えているのよ」
奈美は次第にそう思うようになりました。
「そうかなァ、かぐや姫じゃあるまいし、萩原朔太郎の詩でも月に吠えるのは猫ってことだし・・・」
主人の康雄が懐疑的な目でそう答えると、
「私、小さい頃シートン動物記の“狼王ロボ”を読んで感動したんだけど、サカエも満月を見るとロボのように野生に目覚めるのよ」
奈美は聞く耳待たずといった調子で得心していました。
人間だって月の満ち欠けに左右されて、体が変調する訳で、犬だって月に反応するのは至極当然のことと思われます。ましてや満月の妖しく鈍い光に全身が照らし出されたりしたら、不安の泡沫がふつふつと湧いてきて、脳髄を満たし、つい吠えたくなってしまうのも至極当然なのかも知れません。近所の犬たちも呼応するように鳴きだして、異様な気配となる夜もあります。妖艶な満月は生き物の情動を掻きたてる作用があるのでしょうか。実はサカエは番犬という勇ましい役目を担っていますが、雌犬です。貰ってきた時は生後三十日くらいの子犬でしたが、あっという間に成犬となり、桜井家における己が役割を理解し、番犬としての役目を果たすようになりました。秋田犬と何かの雑種ではないかといわれてましたが、普段はおとなしい性格で、雌犬としての気品を漂わせておりました。
そんなある晩、すっかり寝入っていた桜井夫妻はサカエの異様な唸り声に目を覚ましました。侵入者があるかもしれないと用心しながら様子を見にいきますと、サカエが地面に腹這いになってへたり込んでいます。腰骨が背骨からずれたようにくっきりと浮きあがった状態で、じっとしていられないのか腰を動かすのですが、その度に痛みが走るらしく辛そうな声を上げていました。
「犬も腰を抜かすのかしらん」
事態がよくのみ込めない奈美が当初、呑気なことを言っていましたが、サカエは夫妻を見ても安心した様子もなく、心細そうに上目使いに見上げるだけで、相変わらず哀しげな鳴き声で何かを訴えるものですから、
「何があったの?何かいけないもの食べたの?怖いもの見たの?」
奈美が矢継ぎ早にサカエの頭を撫でながら問いかけました。
「そんなふうに聞いたって、実は・・・って答える訳ないだろう!」
「なぐさめているのよ。可哀想に、そんな大きな声で怒鳴るとまたサカエが怯えるでしょ」
「言い争っている場合じゃないよ。この状態は普通じゃない。救急を受け付けてくれる動物病院を捜してこいよ」
「えェ!今から?この格好で?化粧もせずに真夜中の街を捜し歩けっていうの」
「あのね、冷静になって頭を使えよ。電話帳でも、インターネットでもいいから近所の動物病院を捜して、今から診察してもらえるように電話して頼んでみろということだよ」
初めて見せるサカエの異常に、桜井夫妻も冷静さを欠いていました。
結局、最初に電話を入れた近所の動物病院の院長先生が嫌な顔ひとつせず、パジャマの上に白衣を羽織った姿で診察をして下さったのですが、
「これはサカリですな」と一言。
「いや、うちの犬はサカエです」
「いえいえ、交尾期を意味する盛りですよ。よくこんな格好をするんです」
いつまでも子犬だと桜井夫妻は思っていたのですが、サカエはすっかり成犬としての準備を整えていたのです。
「御代は結構。またご相談して避妊手術されるようでしたら、後日お越しください」
院長先生の優しい言葉がかえって桜井夫妻を恐縮させました。二人とも消え入りそうな声で、ひとまず丁重にお詫びとお礼を申し上げ、平身低頭。こめつきバッタのように何度も頭を下げました。今度は桜井夫妻の腰が抜けるのではないかと思われるほどでした。
帰り道、「明日、駅前の果物屋が開いたら、一番高級な贈答用のバスケットを買って届けておこう」と、桜井夫妻は話し合いました。サカエはといえば、先ほどよりは随分と落ち着いた様子でしたが、まだ時折切なそうな鳴き声をもらしていました。
その晩は満月。見上げると大きくて妖しい月が鈍い光を放って、生き物の切なく哀しい騒動を見下ろしておりました。
了
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