『海が見えたら』
                                
服部清人

 「いつの頃からか“大きくなったね”なんて言われなくなったと思っていた
ら、自分でも気付かぬうちに大人になっていたわ」
と、亜紀子は言った。湾岸道路を走っている時、車の助手席で。奈津子は
ハンドルを握りながら聞いていた。
「色々あったのよ」
その年齢には似合わないそんな言葉も亜紀子の口からもれてくると何の疑
いも持たずにうなずけた。
「でも負けたわけではないわ」
毅然とした口調だった。
「勝ったとか 負けたとか言うことがおかしな話だけどね」
車が信号待ちをしている間、亜紀子は膝に置いていたハンドバックの中から
煙草をとり出して、しばらく弄んでいたが、
「吸ってもいい」
と、奈津子を見ながら小声で言った。亜紀子が煙草を吸うことは何も不思議な
ことではない。と思いながらもつい視線を彼女の手元へ向けてしまった。
「内緒にしてね」
誰に?聞き返そうとも思ったが、やめた。海の色が変わって夏が近いことを告
げていた。その景色に見とれているうちに信号が青になったようで後続車から
クラクションを鳴らされ、慌ててギアをいれた。アクセルをふかしすぎて車は急発
進し、タイヤの軋む音がした。二人の体は強い力でシートに吸い寄せられた。非
難を込めた遠慮のないクラクションは象のいななきのように長く尾を引いて何度
も響いた。見るとバックミラーに巨大なトレーラーが写っていた。二人の車に今に
も覆いかぶさるような具合だった。
「ヤンデル」
何?奈津子は彼女が何と言ったのか聞きとれなかった。
「病気だってこと」
奈津子がアクセルを踏んで車のスピードを増すと、後ろのトレーラーもうなりをあ
げて加速した。
「そんなにたくさんのことを望んだわけではなかったのよ」
煙草の煙が奈津子にかからないようにウィンドーを少し降ろして亜紀子はまた
話し始めた。
「一生懸命働いて自分の力で生活をするの。アパートの鍵を鈴のついたキーホル
ダーにつなげて持ち歩くのよ。お金に余裕ができれば安い洋服を一枚買うために
休みを一日使うの。そうして子供を産み、毎日のささやかな生活を楽しみ、夫の出世や子供の成績のことで頭を悩ますわ。多くなんて望まないの。平凡でゆったりと生きて歳をとる前に、醜くなる前に家族に看取られて死にたいと本気でそう思っていたのよ」
 人間には各々の生活のリズムっていうものがある。本人も気付かぬうちにそれ
は形作られていき、いつの間にかその人に染みついていくもののようだ。何もお
こらない平穏無事な人生を送る人もいれば、始終難儀を抱えている人もいる。
そして往々にして人は今の自分の生活とは逆の状況を望み、それに憧れる。
亜紀子の場合もまったくその例にもれない。
「なんでこうなっちゃったのかなって、何度も考えたわ」
そんなものなのよ。普段の亜紀子にならそう言って、笑い合えたのだが、そんな
雰囲気ではなかった。
「まあ、そのかわり強くはなったわ。随分と鍛えられたから」
「これから生きていく上で何かの役に立つわね」
体裁よくとりまとめた人生相談のような言葉しか奈津子の頭には浮かんでこな
かった。こんな時、気の利いた一言でも言えたらとあれこれ言葉をさがしたが、
どれもテレビドラマのセリフのようになってしまい、それを口にする自分を想像す
るだけで背中がむずがゆくなりそうだった。結局、奈津子は何も言えなかった。
どんなことがあったの。なんて今更聞くのも間が抜けているし、もし彼女がそれ
を一つ一つ細かく話してくれたとしても、きっとまた何も言えずに黙るしかないだ
ろう。沈黙がもっとも雄弁だと奈津子は腹を括った。
「あの町ではね、虫の夢をよく見たわ。何千何万という虫が私の足元にびっしり
と床も見えないくらいにモゾモゾと蠢いているの。本当にあそこはそういうところよ。蠢いているの」
 松林と堤防が途切れると視野が開けてきた。夏本番ともなれば大勢の人で賑わ
うところだ。気の早い若者たちがウィンドサーフィンに興じているらしく、色とりどり
の帆が波間に揺れていた。
「帰ってきてよかった」
この海沿いの田舎町を出て行くときのささくれ立った口調とはまったく違った和らいだ調子だった。奈津子もよかったと思った。
「父さんや母さんに何て言われるか、ちょっと心配だったけど・・・・」
両親はもちろん喜んでいる。二人とも言葉をうまく操れる方ではないから、今はまだ戸惑っているが、それもじき慣れてくるだろう。
「姉さんのようになりたかった」
奈津子は奈津子で亜紀子のことを羨ましく思ったことが何度もあった。
「姉妹でどうしてこんなに違うんだろうね」

 直線が長く続く道路では知らず知らずのうちにスピードも上がってしまう。亜紀子の話に気を奪われて、奈津子は危うく信号を見落としそうになった。赤信号に気付いた瞬間、横断歩道を渡り始めている子供たちの影に気付いて咄嗟にブレーキを踏んだ。間一髪のところで車は子供たちの前で止まった。子供たちの怯えた瞳が運転手の奈津子に集中した。奈津子は思わず頭を下げた。それでも気が収まらなかったので、ウィンドウを降ろし、大声で謝った。子供たちの表情はすぐに元に戻り、何事もなかったように海の方へ駆け出していった。
「やっぱり姉さんは事故にはならないんだ」
反対車線にはみ出してしまった車を一旦バックさせようとしていると、亜紀子がそう言った。
「このコンマ何秒の違いなんだろうね。私ならブレーキを踏むのも遅れていただろう
し、そこはうまく切り抜けたとしても、謝るタイミングを逃して、自分が悪いことはわかっていながら、子供たちにどなり散らしていたと思う。ほんの一瞬の間をとらえられる人とそうでない人とでは人生は両極端ね」
そういうものだろうか。と思いながら、亜紀子の言葉には納得させられるところがあった。
「私のことを知っている人がいないところへ行って、何もかも最初から始めたいと思う気持ちもあるけれど、それだと何だか根無し草のような感覚が付き纏うのよね。ここには私の居場所はないんだって」
この街を出たことがない自分のことと、亜紀子が言う“自分の居場所”といった感覚の間には大きな隔たりがあるように思われた。姉妹は三つしか年の差はなく、何をするにいつも一緒だった。亜紀子のことで知らないことはないと奈津子は思っていた。そんな思い込みが最初から間違いだったのか、結局は姉妹と言えども別々の個であるということを今さらながらに知らされた。
 風が出てきたようで、椰子の木の街路樹が大きく揺れていた。海岸へ駆け出していった子供たちをぼんやり横目で見ながら、奈津子はゆっくり車を発進させた。陽射しは相変わらず強く、波間が光っていた。午後の一時を過ぎて、太陽は少し傾きかけ、ちょうど真正面から視界に飛び込んできていた。陽除けのシェイドを下げるついでにバックミラーを覗くと、先ほどのトレーラーが追いついてきており、ゆっくりと姉妹の車に近づいてきていた。明らかに嫌がらせをしているようだった。この先が岬になっている。その地形を利用して、ゴルフ場の建設が進んでいるのだが、そのトレーラーもそこへ機材を運び入れるための車輌であろう。姉妹は岬の突端にあるレストランへ食事に行くつもりだった。子供の頃、夏になるとここまで家族で泳ぎに来て、そこのレストランで食事をするのが楽しみだった。当時、姉妹の家には車などなく、歩いてその突端まで行ったものだ。しかし、そこもゴルフ場建設予定地の一画に入っており、今月いっぱいで閉鎖になるという話だった。岬の突端へ続く道と、ゴルフ場の建設事務所へ抜ける道とはもうすこし行ったところで二つに分かれる。そこまで行けば高台になっていて、展望も開けてくる。奈津子はアクセルを踏み込んだ。助手席の亜紀子は陽射しが眩しいのか、それとも子供の頃のことでも思い出しているのか、額に手をかざして、前向きの姿勢を崩していなかった。トレーラーも加速して私たちの車の後ろにぴったりとついた。ちょうど道は長い上り坂に差しかかったところで、トレーラーもエンジンを唸らせて巨大な岩のように背後から迫ってきた。ハンドルを持つ手に思わず力が入った。負けない、と奈津子は思った。この坂を上りきれば交差点だ。そこを左に回ればいい。トレーラーは真っ直ぐのはずだ。一気に上りきって差をつければ、カーブを切るための減速に必要な時間はかせげるだろう。
「きっとうまくいく」
助手席で亜紀子が頷いたように見えた。奈津子はアクセルを踏み込んだ。
                                               了


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