当ページの写真作品の著作権は、全て、写真家「塚本伸爾」に帰属します。
個人、団体問わず、サイトや印刷物などに無断で転載利用することを禁止致します。
 『ワレモコウ』
                                     
服部清人

 少し冷えてきた部屋には西日が差し込み、障子越の薄明かりが長く伸びていた。
「これからはおさみしいですね」
「まあそのうち慣れるだろうけどね。でも予定とは違ってしまったな」
「どういうことですか」
「俺のほうが先に逝くって、ずっと言ってきたんだ。遺書だって書いて、後始末のことも指示してあったんだ」
「男が後に残されるとご不便なことも多いでしょうね」
「家の中のことって存外とあるもんだね」
「全部お一人でやっておられるのですか」
「そうさ、娘夫婦が一緒に住もうと言ってくれているんだが、どうも気詰まりでいけない。当分一人でいることにしたよ」
 骨董屋の中川は買ってもらった李朝白磁の壷を納品にきたのだった。もう十年来の馴染み客で、贔屓にしてもらっている岡田だったが、自宅へ訪問するのは初めてのことだった。居間に通され、仏壇の前の真新しい遺影や遺骨の入った綸子の袋を見て、夫人が亡くなったことを知った。岡田はそんなことは一切口にせず、久しぶりに店にやってきて、「このくすんだ白がいい」と言って珍しく陶器を買ってくれたのだった。中川にとってはちょっと意外であった。というのもこれまで岡田は中川の店ではもっぱら日本画の掛け軸を求めていたからである。
「珍しいものをお求め下さるのだなと思ったんですよ」中川は岡田の心中を察しながら、「床の間にひっそりとよく落ち着いています」と、当たり障りのない言葉を選んで口にした。ちょうど伸びてきた西日が壷の裾のあたりを照らし出し、乳白色の地肌の上に陰翳を作り出している。
「焼き物のよさがわからなくて、これまでは書画専門だったんだが、これを期に少し買ってみようと思うんだ」
「お目に適うような品を揃えられるといいのですが」
「実は花を買ってあるんだ。君さ、心得はあるだろ、花を活けてくれまいか」
「私なんか無手勝流で、いい加減なことこの上ないですが、嫌いじゃないのでそんなことでよろしければお手伝いします」
「上等、上等。台所においてあるから持ってくるよ。ちょっと待っていてくれたまえ」
 岡田が部屋を出て行った後、中川は一人取り残されて見るとはなしに床の間の脇に備えられた仏壇の遺影に見入った。
「あれっ」と思わず声が出た。遺影の中で微笑んでいる夫人は中川が記憶している面影とはまったくの別人であった。岡田は何度か女性を伴って来店していたので、てっきり年恰好からいってもその女性が奥方だと思っていたのだ。確か一度そんな会話を交わしたこともあったはずだ。
「奥様にご理解があるのはいいですね」中川が他意なくいったことを、岡田は冷やかされたと思ったのか、
「こいつはほとんどこういうことには興味はないんだが、勝手についてきたんだよ」と照れくさそうに弁解したことがあった。しかし思い出してみるに、その時女性のことを「家内」とか「女房」とはいわれなかった。そういえば床の間だけでなく、中川の店で求めていったかなりの数の掛け軸類がどこにも掛かっていない。ところが玄関から通された客間や居間につながる廊下の曲がり角には古美術品とはいえないが、鑑賞用の陶器類が配置されていて、きれいに片付けられていた。これはいったいどういうことだろうと中川は想像をたくましくした。
 そこへまったく悪びれせず岡田が花を持って戻ってきた。
「花切り鋏がどこに置いてあるかわからなくておまたせしたね」
「奥様は花がお好きだったのですね」
「いたってシミったれた花が好きだったな」岡田の手には水の入ったバケツが握られていて、幾種類かの花がそこに放り込まれていた。
「中でもこの脇役のような花ともいえないような花が一番好きだったみたいだ」
「ワレモコウですね。主役を引き立てる名脇役って感じの花です」
「そう思って、幾つか他の種類も買ってみたんだ」岡田は花屋に見立ててもらったという、いずれも可憐な花を差し出した。中川は与えられた花材の中から数点を選び、それにワレモコウを加えて、李朝白磁の壷に投げ入れた。
「ちょうど上手い具合にとまってくれました」
「うん、清楚な感じでいいじゃないか」
「シミったれていませんか」
「いやいや、それどころか花が入るとやっぱり周りの空気が和むもんだね」
「奥様がお住まいのあちらこちらに花を活けておられたのも同じように感じておられたからでしょうね」その言い方に中川はちょっと含みをもたせた。
「うん」岡田はそこで少し間をおいて、「君も気がついたと思うんだが、私はこの家にもう長く寄り付いていなかったんだ。家内とは私が定年を迎える頃からうまくいかなくなって、別居状態となった。何度か君の店に連れて行った女性がいただろ。今はあれと一緒に住んでいる。君のところで買った掛け軸の類は全部そこに置いてあるんだ」とあっさり白状した。
「そうだったんですか」中川はわざと驚いた表情を見せたが、内心ではそれで合点がいった。
「この家は女一人で住むには広すぎるが、家内は誰が来るわけでもないのに、いつも花を絶やさず、掃除も行き届いて静かに暮らしていたということを隣の奥さんから聞かされたよ」
「岡田さん、ワレモコウの花言葉をご存知ですか」
「いや、知らないな」
「愛するという字と慕うという字を書いて、“愛慕”というのです。たまたま先日店で話題になったので私も憶えていたのですが・・・」
「家内もそれを知っていたんだろうか」
それは岡田さんが一番ご存知でしょう、と口元に出かかった言葉を中川は瞬時に言い換えた。
「ワレモコウは漢字で書くと吾も亦た紅なりとなりますが、私は吾も亦た恋う、吾亦恋と書くと思っていました」
すると、とまっていたはずの花がカサッと音をたててわずかに動いた。
                                                 了


一滴閑話目次に戻る

トップページに戻る