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 「一億円を稼ぐ男」

                                      服部清人

 街にはクリスマスソングが流れ、日増しに慌しくなる年の暮れ。その日は風もなく冬とは思えない穏やかな日だった。午後になって一人の男性客が骨董店を営む中川の店に現れた。
「家を新築しまして、来週の20日に知人を呼んでお披露目をするんです。それまでに百万円くらいの絵を三枚欲しいんですよ」
と、おっしゃる。この道に入って25年のキャリアを持つ中川でも、こんなお客はそうそうはいない。呆気にとられていると、追い討ちをかけるように、
「オートレーサーなんですよ、私。佐藤和夫といいます。今年はこれまでのところ、年間賞金獲得高、第七位なんです。25日にベストテンの10人でオールスター戦があるんですがそれに勝って四千万取れば一億超えます。あさっても九州へ遠征です」
聞きもしないのに次々とご自分の素性をお話になる。しかしオートレースなんて中川にとっては未知の世界。新聞や雑誌で車体を傾けて路面すれすれにバイクを走らせる写真を見るくらいのことしかイメージできない。しかし何だか変だ。
「そんな高価な絵は今はありませんが、一週間位待っていただければ用意しておきます」
警戒しながらも、うまくいけば悪くない話。どこかでそろばんを弾き愛想笑いを浮かべる自分を情けなく感じながら、中川は
「さぞかし立派なお宅なのでしょうね」
などと。

 結局一週間後に見に来る時間が取れないということで、
「今日のところはここにある物をいただいておくことにします」
と、願ってもないお言葉をのたまい、
「これと、これと、これとこれ。それにこれも」
並んでいた品を指差し、魚屋でさんまやいわしを買うような調子で選んだ合計の金額は二百五十万円。日頃は冷静沈着をモットーとする中川も声がうわずっているのがわかってちょっと恥ずかしかった。そんなやりとりを縫うように、次々と別のお客様がやってきて話は何度も中断するのだが、彼は一向に慌てる様子も無く、
「ここは色々な人がやってくるんですね」
「いや、たまたまです。人が来る時って重なるんですよ」
実はちょっと前に開催した展覧会でお買い上げいただいた品物の引き取りにこられた方々がその代金を持ってきてくださったりしたので、普段よりも人の出入りが多かったのである。狭い店内なので、お金のやりとりをする際も別室でというわけにもいかず、少しまとまった金額を中川が受け取っている様子がいやでも彼の目に入ってしまった。案の定、
「邪魔して申し訳ないけど、閉店までここで時間つぶさせてもらっていいですか。いやそのぉ、今日ここに来るのに名古屋駅まで友人に車で送ってもらったんですが、うっかりしててその車にバッグとか財布とか全部置いてきちゃったんです」
などと言い出した。居直り強盗かぁ?いやな予感が。
「でも大丈夫、今晩十時にその友人ともう一度待ち合わせているんです。お金やバッグはそれで戻ってきますから、お代は明日払いに来ます。それまでちょっと待って下さい。それよりも私にとって大問題なのは今晩の十時まで時間をつぶさなきゃならないということです」
「はあ」
オートレースという命がけの世界で二十数年間生き抜いてきたと言っているが、そんなキャリアの割に何だか重みも厚みも感じさせない軽いノリ。しかし、どうしても悪い人には見えないのだ。― まさか自分の身に起こるはずがないと思っていました。と、事件の被害者がテレビで言っていた“まさか…”という言葉が何度もネオンサインのように脳裏をかすめては消えた。しかし、居直られ、突然豹変して強行に出られても、こちとら自衛手段を備えておらず、刃物でもちらつかされたら言うなりになるしかないだろう。そんな中川の胸中を知ってか知らずか閉店まで平然と居座っていた男はご親切にシャッターを閉める作業まで手伝ってくれ、ぼそっと、
「これから十時までどうしようかな」
などと言うものだから
「じゃあ、食事でも」
と、つい口からお愛想が出てしまった
「どこへ行きましょう」
高い店を言われても困るな。言いながら自分の墓の穴を掘っている様子が脳裏に浮かぶ
「日本食の“さと”って店がいいなぁ」
ファミリーレストランである。しめた。
「この近くにはないから駅の方まで行かないと。でもまだ時間も充分あることだし、そこにしますか」
ということで、のこのこ連れ立って移動した。その間もおかしな素振りはなく、心配したシチュエーションに展開することもなくて済んだのだが、勿論警戒は解いていなかった

 結局、ファミリーレストランで刺身定食をおごって、別れ際、
「十時まではお付き合いできませんが、これで時間をつぶしてください」
なんて余計な気をまわし、中川は一万円札まで渡してしまった。― もしかしたらこの人は本物のオートレーサーで年間一億円を稼ぐ男なのかもしれない。という期待を込めた思いがまた頭をよぎったのだ。明日になれば大きな買い物をしてくださる滅多にいない大事なお客様なのだと。
「明日の朝9時、九州へ発つ前に今日の御代を持ってきます。駅ビルタワーの展望台で待ち合わせしましょう。私、朝の街を眺めるのが好きなんです。その時にこの一万円もお返ししますから。それまでちょっとお借りしておきます」
と最後まで慇懃な物言い。ただし一万円を受け取ると、きびすを返して立ち去った。未練がましく見送る中川のことを一度も振り向かず、その男は夜の闇に吸いこまれていった。中川はその様子を見て何だか笑いがこみ上げてきた。結構楽しかったしまあいいか。やれやれ、そんな感じである。
 
 家に帰ってこんなことがあったと妻に伝えると、
「私、その人を信じるわ」
と、宝くじにでも当たったような喜びよう。
「こんなことがいつか起きると夢見ていたの。わたしが明日は店番するから、あなたはいつもより早起きして駅ビルタワーに行くのよ。遅刻はだめよ。気を悪くさせてドタキャンなんてことになったらいけないもの」
大変な意気込みであった。言われてみると中川もなんだかまたその気になってきた。
「サンタクロースがオートバイに乗って二百五十万円のプレゼントぉぉ…♪」
妻は洗い物をしながらヘンな鼻歌まで歌う始末。中川も明日に備えて早く床についた。

 翌朝、中川は妻の言う通り約束の時間に遅れないように駅ビルタワーに到着し準備万端、手ぐすね引いて待っていたのだが・・・・。結局午前中いっぱいその展望台で時間を過ごしてしまった。
 店に戻り、午後になってやっとあきらめのついた中川はなんだか疲れてしまって、ため息をひとつ。来年は風向きを変えたいものだなぁと大きな深呼吸をひとつ。妻には、
「だから言っただろ、まったく馬鹿なやつだ。お前本気にしてたのか」
と、諭したものの、一番落胆していたのは中川だったのかもしれない。
「熱いお茶でもいれてよ」
老夫婦のように二人で外の様子を眺めながら言葉少なくお茶をすすっていたら、やっと腹がすいてきた。
「外で食事してくるよ」
中川はそう言っておもてに出た。昨日とは打って変わって冷たい風が吹き抜けていた。
                                            了
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