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『想像してみてください』
                                    服部清人


「想像してみてください」

と、安岡先生は教室に入って来るなり切り出した。
「夏の終りの蜩の声を」
授業の始まりを告げる挨拶もなく、誰のことも見ようとしない。
「想像してみて下さい」
と安岡先生はなおも続けた。
「ゆっくりと深まる雪の夜のしじまを」
まだ放課の気分でいた者も、次第に席に着き、聞き耳をたて始めた。
何が始まったんだ。生徒は皆あっけにとられていた。
「想像してみて下さい」
誰かが真似をして小さな声で反復した。しかし、笑う雰囲気ではない。
「光も届かないような暗い海の底を」
「想像してみて下さい」
「気高くそびえる山の峰の解けない氷に閉じ込められた下草のことを」
「想像してみて下さい」
「誰もいない地下室で白布をかぶされたあなたの亡骸を」
そこまで一方的に話して、というよりはつぶやくように語りかけて、
「僕は学校を辞めることになりました。だから今日は最後の授業になり
ます」
と、言った。
そのあとはいつもと同じように淡々とした口調で太宰治を論じ、
「では、さようなら」
と、言ってあっさり教室を出ていった。
 
 翌週の朝礼の際、校長が「よんどころない事情で」と説明して、安岡
先生が退職されたことを告げた。そして、一年が過ぎた頃、先生が亡
くなられたということを噂で聞いた。十五年前のことだ。それ以来、弘一
は毛玉を飲み込んだ子猫のような気分をずっと味わって来た。あの頃の
弘一は若くてわがままで、ざらついた感情を持て余していた。安岡先生
の見つめていた世界のことや、置かれていた状況について想いを馳せ
ることなど、宇宙の果てがどうなっているのかを図示するよりも困難なこ
とだった。そんな弘一の尖った心の奥に安岡先生の言葉はするりと入り
込んで、地雷のように土をかぶって何年も息をひそめてきたのだった。弘
一自身も気付かぬうちに。
 
 十五年を経たある日、弘一は安岡先生によく似た後姿を街中で見つけ
た。「想像してみてください」あの口調が遠い木霊のように耳の奥に響い
た。弘一の中で何かがカチリと音をたてて結びついた。心の中の地雷を
踏んだのだ。
「安岡先生、あの時の先生の言葉がずっと気になっていました。そしてぼ
んやりと感じていたんです。僕たちはとどまることの無い旅人で、ただ行
過ぎていくしかないのだと」
 安岡先生が伝えたかったのはそういうことだと、やっと静かに納得できた。
ちょうど先生によく似た男の背中が人込みの中へ消えていくところだった。
                                           了     
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