『観 魚』
服 部 清 人
昭和四十四年二月九日の名古屋の晩はことのほか寒かった。前年の暮れより床につきがちであった観魚は、自らの死期を察すると人を呼んで身を起こさせ、机の上においた仏像と肌身離さず持ち歩いていた祖父母や父母の遺骨を入れた小さな袋に向い、灯りを消させて永眠した。九十二歳の生涯であった。道元禅師の「普勧坐禅儀」に端座して死し、直立して涅槃に入る「坐脱立亡」という言葉があるが、観魚の死はまさに坐脱であった。
伊藤観魚は明治十年十月十日、名古屋市東区西魚町二丁目(現在の中区丸の内三丁目)の料亭“近直”の次男として生まれた。本名、_次郎。近直は嘉永年間から尾張藩の御用をつとめ、維新後も明治天皇のもてなしを引き受けるなど、昭和にいたるまで名古屋有数の料亭として知られていた。つまり観魚は何不自由のない境遇で育った訳だが、若い頃から宗教心を身につけ、勉学にもたいへん熱心であった。青年期には仏典や俳書などを読みふけり、兄、天籟と塩谷華園(鵜平)、黒部烏不閑らの句会「大根会」に入会し、雑誌『花大根』の編集に参加したりもしている。大根会の同人達は、正岡子規を慕い、河東碧梧桐も来名の折には近直を宿としていた関係から伊藤左千夫、長塚節、東本願寺第二十三代門主、彰如上人(俳号、句仏)等とも知ることとなる。
明治末年、三十歳を過ぎた頃、勉学の志断ちがたく上京し、そこで中村不折に洋画を学び、横山大観、前田青邨、芥川龍之介、香取秀真、柳宗悦、瀧井孝作等の錚々たる文化人との交流を持つ。また書に関しては、不折や碧梧桐が中心になって起こした「龍眠会」という当時としては画期的な主張と作風を展開した集団に参画し、そこでも頭角を現すのである。しかし生来の性分からか、書、絵画、俳句のどの分野においても結局世に出ようとはしなかった。
その後、大正十二年頃、名古屋に戻ってからは近直の離れに母と住み、時々東京の友を迎えては悠々自適の生涯を送るようになる。飛騨高山に遊び、当時まだ誰も評価していなかった円空の鉈彫り仏像に美を見出したりして、瀧井孝作の小説『風流人』のモデルとなったのもこの頃である。
しかし昭和二十年、第二次大戦の名古屋大空襲で近直一帯は廃墟と化し、観魚も一切のものを失った。この時すでに母はなく、そこで世俗的な付き合いの煩わしさを避けて、無一物の生活に入る。中村区八田での居候生活。読書と作句、時に気が向けば書画に親しむといった坦々とした日常を送り、最期は料亭稲本の社員寮の一室で冒頭に記した昭和四十四年の入滅を迎えるのであった。後半生では碧梧桐の新傾向を嫌い、独自の道を行くこととなるが、その生涯作句数は三万を越えると言われている。今となっては知る人も少なくなってしまった名古屋のユニークな俳人の一生はまさに長編の小説となりうるものである。
何を創造するにしても、その原動力となるのは真理を求める止むに止まれぬ情動であろう。あの海の向こうはどうなっているのかと思いついたら、身の危険も顧みず行動してしまう冒険家のように、突き止めなければ気がすまないという強い情動がなければ優れた創造物を物することはできない。観魚もそんな芸術的因子を備えていた人だ。だからこそ若い頃は自分の中に渦巻く嵐のような欲求にかられて新奇の表現に目を奪われがちとなった。だが次第にそれが王道を貫くものでないことに気がつき始めると、衒いや嚇かしに頼らず、もっと人間本来の普遍的な深々とした心情を表現することこそが芸術の使命であると悟ったのであろう。九十二年の生涯はその証しであった。
草々
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