『土の匂いの ~ 内田鋼一(陶芸家)』
服部清人
ちょっと人見知りするタイプなのか、人を紹介したりすると、あまり表情を崩さず「内田です」なんて調子でぶっきらぼうに挨拶したりして、それで相手の方が次の言葉に窮してもじもじしているから助け舟をだすこともあった。ところが二言三言話すうちに打ち解けてくると、口辺を大きく引っ張ってニッと破顔一笑。一気に緊張もほぐれて空気もなごむ。それからはもう意外と人懐っこい内田さんの一面を知って、誰もがすっかり安心してしまうのである。この緊張と弛緩、またはスピリチュアルとユーモア、この落差がそのまま内田さんの作品の幅になっている。
今や内田さんは現代陶芸(1)の旗手といえる活躍振り。イギリス、アメリカ、イタリア、オーストラリアなど海外への出展を頻繁にこなし、国内のどこかで毎月展覧会が開かれているという忙しさである。2003年には弱冠33歳にして三重県菰野町にあるparamita
museum(2)にて大規模な個展が開催され、その記録が『UCHIDA KOUICHI』(求龍堂刊)としても出版された。18年来の知己として親しくさせてもらっているが、特にこの数年は一人の青年がどうやって世の中に認められていくかという過程を傍でつぶさに見てきたのである。
内田さんは陶芸界の徒弟制度の中で育ってきたのでも、大きな会派で受賞歴を積み重ねてきたのでもない。師も持たず、会にも属さないまま個展活動を中心にこれまで歩んできた。今でこそマスコミへ登場する機会もふえて不特定の人にも知られる存在となっているが、基本的なスタンスは変わっていない。折にふれフラッとやってきては話してくれる近況を聞いていると、与えられる仕事の場面が拡がり、関わる人の層がどんどんと高まって、なるほど一流のステージで一流の人達が結集して成されるプロジェクトとはこういうことかと感心させられる。内田さんをそういった位置へ引き上げることとなった一番の大きな要因はなんといっても作り出す作品の魅力であろう。それが人を惹きつけ、武器となって最大の説得力を持つようになってきたというわけだ。媚たり、へつらったりということをしない性格であるから、とかく不器用に振舞って衝突を起こしていそうだが、どうもそういうことはないどころか、次々と年長の有力者が偏に内田さんの作品に惚れ込んで新たな場面を用意してくれている様子なのである。
その内田さんの作品の延長線上に位置するのが民具を中心としたコレクションである。「柳宗悦(3)によって提唱された“民芸運動”(4)なんてずっとあとになってから知ることになるんだけど」教えられたことではなかったが、最初から自分の中に潜んでいた感覚。それを内田さんは蒐めたモノを通じて、そして自らの作品を通じて確認してきた。
かつてアジアやヨーロッパ、果てはアフリカまで旅した際、焼き物を生産する村々に滞在しては働いたという経験が内田さんの土台になっているということは多くの人が指摘することだが、期せずしてそのことが内田さんの内なる感覚の確認行為となったということが推測できる。「土を固めて成形し、中にできるだけたっぷりとした空間ができて、水や穀物がいかにたくさん蓄えられるか」確かに器の第一義はそこにある。「でも人ってそのうちそれじゃあ満足できなくなるんだよね」そう、そして外観を装飾するようになるのである。陶芸の歴史はそこから大きく展開し始める訳だ。「そうなってくるとどんどんエスカレートしてこれでもかってなっちゃう」事実、日本においても江戸後期から明治期にかけての職人の技術は九谷焼(5)や薩摩焼(6)に見られるように精緻を極めるようになっていく。「そうじゃなくって、僕がいいなって思えるものはもっと違ってた」
ちょうど内田さんが登場してくるのが平成の最初。世の中は活況の経済が翳りを見せ、バブルが弾けて美術界も長い低迷期を迎えようとしている矢先だった。二十世紀初頭から湧き起こった現代美術(7)、現代陶芸の大きなうねりは新しい美術の創造という大命題を掲げ、この百年の間に様々な展開があった。しかし、今まで見たこともない、経験したこともない作品を求められた作家たちはどんどんと過激にならざるをえなかったのである。ところが手品のネタはいつかは尽きる。事実、世紀末に近づくにつれ次第に閉塞状況ははっきりと誰の目にも映り出した。力に溢れた奔放な作品は食傷気味となり、都会派の疲れたキャリアウーマンが求めるような癒し系の静かでシンプルな作品へ大きく針は振れていくことになるのである。内田さんはそこへ登場してくる。「あまりそんなこと考えたことないな。別にそのタイミングを狙っていたわけでもないし」もちろん時勢を計ってなどいなかったであろう。自分の中にあったものを思うままに当たり前に作っていたら、たまたま声高に主張するような作品群に辟易としていた人達が同種の因子をもった内田さんの作り出すものにシンパシーを感じて、それを認めていったということだ。「たとえば李朝粉引きの雨漏り(8)とか、根来塗り(9)の手擦れとか、銅器に吹き出た緑青とか、そんな一見汚いともいえるような様子をなんとなくきれいだなって思っちゃう」この言葉に理屈はないだろう。かつて利休が提唱した侘び、寂びに通ずる美観。教えられた知識ではなく、根っこの部分にあるもの。それを内田さんもちゃんと備えていたということだと思う。この感覚を先天的に備えている方は結構多い。しかし、それを具現化、つまり作品化できる能力を持つ人となるとその数はぐっと少なくなる。しかしモノ作りの普遍的な肝心はこのあたりに潜むようだ。内田さんもうすうすそのことに感付いているのではないか。自分の中にあったある部分を突き動かされるように掘り進めていたら、金の鉱脈にぶち当たってしまった。「これでいいのかな、がこれでいいんだ、になった」手応えが確信となってますます自信を深めているようだ。
古代土器の造形、天然染料の布の色調、手作り木工品の微妙な歪み、そしてそれらが経年の果てに纏った時代色。そこには白洲正子(10)が言った“秘密と翳り”がある。モノの魅力はそれに負うところが大きい。たとえばそれは「中間色の色合い、マットな質感、シンメトリーでない造形。そんな要素を秘めてさりげなく佇むモノ」という内田さんの言葉に置き換えると少し具体的になる。見る者に憂いや不思議を抱かせるようなモノ。最初に見た時の感じがもやもやと長く持続するようなモノ。その謎が簡単に解けてしまわないようなモノ。たかがモノに対してあまり思い入れをするのは危険だが、ある種の意図を持って制作された美術品にも、または機能を追及して作られた道具にもそんな“秘密と翳り”は宿る。人も同じだ。頑なに黙っているが確かに何かを秘めているような人。どこかに翳りをもつ人。それが誘うのである。それはまさしく内田さんの作品にも通じていくのではないか。きっとこれからも流行とは無縁の地平を歩む姿勢を守っていくことになるのだろう。そして身辺にはいつも「気持ちいいモノ」が置かれ、その波長を受け止めながら独自のモノ作りにいそしむこととなるに違いない。
最初に知り合ったのが、内田さんが22歳位の時だが、それ以来、印象は変わっていないので、今でも青年といったイメージが抜けない。そうはいってもすでに三人のお子さんが大きく成長している。2009年4月の明治村茶会(11)の折には長女、風知ちゃんも和服を着て茶会の手助けをしたとのこと。学生時代からの同級生で同様に陶芸に携わる京子さんの内助の功が大きいことは、内田さんも認めるところだろうが、この二人の薫陶よろしく、お子さんたちもそれぞれ個性的に育っている様子。「とうちゃんのすきなもの」といって長男の大我くんが、錆びた針金を拾ってきたりするという。子供は親の背中を見て育つというが、自分のことにばかり忙しいようでいてしっかり教育はしているようだ。さすがに最近はあてもなく海外へ出掛けてしまうことはなくなったが、それは求めるものがなくなったからではなく、もっと身近な日常のひとコマや、次々と目の前に現れる新たな人物が持ち込む話の中からも充分に刺激や答えが得られるようになったための結果。今後ますます忙しくなることが予想できるが、老婆心ながら長期展望にたった賢い選択をして、少しでも遠いところへ到達してほしい、と思うのである。「まだまだおもしろいモノってあるんだよね」この言葉が聞けるうちは安心だ。世界には我々のまだ知らないおもしろいモノ、美しいモノで溢れている。時にそういうモノから刺激を受け、また新たな作品を見せてくれることを期待している。周囲の過度の期待は本人にとっては重圧となることもあるが、内田さんの場合、それは杞憂に過ぎないだろう。どんな圧力にも屈しないがっしりとした体躯を持っている。ガツンと受け止め、豪快にうっちゃり勝ちといったところだろうか。いや意外とひらりと身軽に肩すかしという決まり手もある。それもまたよしだ。
了
蒐める人々目次に戻る
トップページに戻る