道元禅師(1)の記した『赴粥飯法』(2)の冒頭には〈経曰、若能於食等者、諸法亦等、諸法等者、於食亦等。方令教法而等食、教食而法等〉の一文がある。食を摂ることも道を求めること同じである、という教えだ。“飲食求道(おんじきぐどう)”と言うこともできる。飲食は生き物が生命を維持していく上で一番大事な行為であるが、これも毎日繰り返しているうちに単なる栄養補給の手段としてだけでなく、無駄のない美しい所作で、感謝の気持ちとともに頂戴するという、ある種の儀式めいた様相を、または修練の場という別面を持ち始めることがある。禅の修行僧などは朝起きて夜寝るまで事細かな作法によって規定され、飲食も修行の一環となるわけだが、最初は堅苦しいように思えても、ひとつひとつ決められた形に従うことで、いつのまにか心地よさを伴うようになるものだ。茶道などはその最たる例である。
さて、話は一気に飛ぶのだが、今回ご登場いただく高橋勝弘さんは横浜のご出身である。歴史を紐解くと、1854年、日米間に和親条約(3)が締結されたのを期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五カ国との間で、次々と修好通商条約(4)も結ばれた。1859年、横浜は開港され、近代港湾都市の歴史はここから始まることとなる。2009年はちょうど150年を経た記念の年だ。この間、大正十二年の関東大震災(5)、昭和二十年の第二次大戦時における大空襲(6)といった大禍をくぐり抜け、そのつど横浜は日本の玄関として常に海外との関係を密接に保ちながら力強く復興を果たしてきた。このことはその地で生きた人々の並々ならぬ努力の成果であるが、その過程でアメリカに代表される西洋文化をいち早く受け止めたのが横浜であったということも確かなことであろう。
では、高橋さんの生まれた昭和七年の横浜はどんな様相だったのか。この年におきた大事件といえば五・一五事件(7)である。昭和四年に始まった世界大恐慌(8)、昭和六年の満州時変(9)を受け、国内外にも不穏な空気が流れ始め、国民の間に大きな格差が生じ出したことから、地方の農民の間には不安や不満が充満していった。その状況下でこの事件はおこった。犬養毅首相(10)が青年将校らの凶弾に倒れることとなるのだが、この前日、折りしも初来日したチャップリン(11)は神戸から東京へ上京し、犬養首相と会談する予定があった。後の公判で明らかになるが、決起将校らはチャップリン歓迎会で、首相もろともチャップリンも殺害する計画であったという。結局チャップリンは難を免れるが、一連の騒動をくぐり、六月二日、横浜港より日本郵船の氷川丸(12)に乗船し、帰国の途に着くのである。高橋さんはその九日後の六月十一日に生まれた。「祖父が日本郵船で調理師をしていてね」高橋さんの生い立ちとこの事件が微妙にリンクする。「和食の料理長として昭和の始めまで世界の海を航海した祖父は隠居のために港が遠望できる家を建てましてね。そこに世界各地の民芸品や骨董品、切手、絵葉書などが山ほどおいてあったんですよ」それらが高橋さんに異国文化への憧れをもたらした。
長じて日本大学芸術学部写真学科へ入学し、新興写真を代表する金丸重嶺(13)の薫陶を受け、写真に熱中する。卒業後は日活で撮影助手として、当時一世を風靡した石原裕次郎(14)の映画製作にも関わったりした。「撮影スタッフ全員で裕次郎と撮った記念のスナップを今も持ってるよ」裕次郎といえば時代を象徴するような人物だ。さぞかし刺激的な職場であったろうとスナップを拝見した。
昭和三十七年、開局されたばかりの名古屋テレビへ入社。報道・事業・販売促進といった部署を経る。仕事上、全国へ出張する機会も多く、「酒場や酒をこよなく愛してきた」ことから、必然蒐集するモノも飲食に関する品が主となった。幼少期、祖父によって撒かれた種から自然と蒐集癖が芽生え、大人になっても止まるどころか益々とその癖は昂じ、しかも守備範囲は広がっていった。退職後は全国の焼き物産地にある窯元を訪ね歩く“探窯会”(15)に所属し、年に四~五回の旅行に出かける折に、現地の陶芸家の作品を買い求めた。ここでも酒好きであることから、次第に集中してぐい呑を蒐め始める。デパートやギャラリーで開催される陶芸展で次々と作家もののぐい呑を購入。その数「数えたこともないけれど5~600点になってるかなあ」それに伴い、展覧会場を巡って、住所を記しておくと、次の催事の案内がダイレクトメールとして届くようになる。それが毎日のように届くようになって「皆さんが趣向を凝らしたDMを捨てるのに忍びなく」蒐めるというよりは「とっておいたら」数千枚になってしまった。
また三十五年のキャリアを持ち、“箸袋趣味の会”(16)の会員として全国の蒐集家と交流を図っている箸袋コレクションは五万点を数える。飲食の行為は音楽や演劇などのように時間芸術と同様で、時がたてば消えてなくなってしまうものである。どれだけ美味なる食事も形にとどめておくことのできないものだ。「だから、せめてその記憶を繋ぎとめておくために、という思いからお店の屋号などを印刷した箸袋を残したんだね」
加えて、グラスやジョッキの下敷きであるコースターも蒐まってきた。こちらは実用的な用途からだけでなく民芸品、土産品、記念品としての副次的需要も高く、しかも世界中で製作されているので、その種類や数は厖大なこととなる。ある程度の全貌を知るだけでも大変なことだろう。ゴールのない航海に出航するようなものだ。それでもひたすら蒐集に励み世界三十数カ国、三千枚を越える数の品が蒐まった。材質も形態も多彩なラインアップである。「飲みにいったり、食事をしたりした結果としてのおまけみたいなもので、この一枚一枚を買ったわけではないけれど、逆にこの一枚を手に入れるための雑費は結構かかっているんだよね」例えば海外に出かける人に餞別を渡して、「お土産はいらないから、どうか食事をしたときには、コースターを濡らさないでもって帰ってきてくれ」と頼んだりとか、海外のビールメーカーが製作するコースターが欲しくて輸入商社に協力してもらうとか、確かに記録には残らないものの、出て行く資金を累計すれば相当なものとなっているだろう。
よくコレクターの方々が自嘲気味に、コレクションのために費やした分を残しておいたらねえ・・・と言われるのを聞いたりすることがあるが、それは決して本音ではなく、単なる“反省のフリ”に過ぎない。もしコレクター癖のある人が自分の感情を押さえ込んで金儲けだけに励んだとしたらなら、多分味気のない人生を送ることになるだろう。心の健康の原点は好奇心である。好奇心は人類を発展させてきた。時にそれは未知の学問分野を切り開くきっかけとなったり、未開の土地の発見につながったりした訳だ。また複雑で厄介だけれど、どこまでも愛すべきこの人間を人間たらしめているのは好奇心であるともい言えるのではないだろうか。他の生き物は個体の維持や種族の保存のために必要なこと以外の行動は滅多にとらない。人間だけが好奇心の産物である生産とは関係のない趣味を持ち、コレクションという言ってみれば奇妙な行動をとるのである。
「財団法人日本レクリェーション協会(17)余暇開発士という長い肩書きもあるんですよ」いただいた高橋さんの名刺にはそう記されている。高度経済成長時代を経た企業戦士は仕事に多くの時間と労力を注いで、その挙句濡れ落ち葉のようになってしまうということが問題になったことがあった。その後バブル崩壊を経て日本人の中には金だけによりどころを求めない価値観が生まれだした。それはひとつの時代をくぐり抜けたからこそ生まれてくるものである。めざましい経済発展を遂げている韓国、中国、インドなどの国々と比べても、〈金がすべてのものさしではない〉という考え方を持つ人々が多いのはアジア諸国の中で日本がひとつ先んじているところだろうか。
医療の発達で寿命は長くなり、我々は定年後の人生を“余生”と捉えるのでなく、計画的に設計しなければならなくなった。健康であること、生活が保障されていることなどが大前提ではあるが、何を目標に、何を成すか、誰と関わって、どうやって生きがいを見出していくか。それぞれがただ漠然とではなく具体的に考えていかなければならない時代となってきている。
妙な言い回しだが、“ていねいに生きる”という言葉に惹かれたことがあった。道元の教えの一端もこのようなことかなあと、ふと思ったりしたものだ。飲食の際だけでなく生活全般において、または長い人生において、ひとつひとつのことをていねいに扱い、そして対応する。人にもモノにもである。それを延々と積み重ねているとそこに安らぎが生じ、次第に何か見えてくるものがあるのだろうと。高橋さんが終わりのない航海に今も乗り出しておられるのはその行程の中にまずは心地よさがあるからであり、富士山の三合目よりは八合目の方が眺望がひらけ、見える景色も壮大になるように、高みに登れば登るほど達成感もより深くなるからであろうと、勝手な想像をするものである。「見えてくるのは蒐集品が納まったダンボールの山ばかりだよ」と高橋さんは笑う。
了
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『終わりのない航海 ~ 高橋勝弘(箸袋趣味の会会員)』
服部清人