『“駅前旅館”番外編~加藤五八郎(元旅館経営)・加藤哲朗(会社員)』
服 部 清 人
昭和31年に発表された井伏鱒二(1)の小説『駅前旅館』は東京上野駅前の団体旅館を描いた傑作ユーモア小説である。まだ駅前にビルが建ち並ぶ前のことで、日本中のどこにでも似たような景色があった。そんな時代背景の中、このような駅前旅館は戦後日本の縮図のような場所で、モラルや世相を代弁して、その規範を具現化したかのごとく、高度経済成長にまつわる悲喜こもごものドラマの舞台として象徴的な存在であったといえる。井伏の筆は見事にその様子を写して多くの読者に迎えられた。昭和33年には東宝により映画化。全国に配給され、森繁久彌(2)、伴淳三郎(3)、フランキー堺(4)の三人が共演し、大いに人気を博した。その後『駅前シリーズ』は全24作品が製作される。ほとんどの日本人が一度はその映画に笑い、泣き、自分達の日常を重ね合わせたことだろう。誰もが明解な目標を掲げ、それに向って突き進み、ストレートに達成感を味わうことができた時代、安保や公害の問題などを抱えながら、それでも前を向いて歩いて行こうという意欲を持っていた時代だったのである。
加藤五八郎さんのお話の中には名古屋の古い町名がよく登場する。特に幼少期を過ごされた現在の中区、東区周辺は江戸時代、名古屋城を中心とした武家や商家の集中するエリアであったから、鉄砲町、袋町、呉服町、住吉町、末広町、八百屋町といった往時の町並みが想像できる町名が並ぶ。その後、改名を繰り返すが、いくつかは昭和になっても受け継がれてきた。「祖父が始めた“料理業五月本店”が入江町(現在の栄2丁目)にありました。今は白川公園となっているところに白川小学校があって、私はそこへ通ってました」と、大正12年生まれの五八郎さんがおっしゃるのは昭和初年の話。店は問屋街への仕出し弁当なども引き受けて、てんやわんやの毎日。日米野球(5)が開催された折には大リーガー達が食事にやってきたという逸話もある。「ルー・ゲーリック(6)のサインボールもあったなあ」その繁盛振りが目に浮かぶ。幼い五八郎さんの身の周りのことは子守役の女中が世話をした。「母は朝から晩までよく働いてました。母の働く姿が目に残っています」街は今と違い、のんびりとして情緒があった。市電(7)が通っていたが、車なんてほとんど行き来せず、それでも人々の間には活気があった。「戦前の広小路には夏の夜になると毎晩屋台が立ち、そりゃあもう華やかでした」虫屋、瀬戸物屋、植木屋、古道具屋などが軒を並べ、ほおずきやら風鈴、綿菓子などが売られていた。縁台を持ち出し、アセチレンランプの光に照らされて将棋に興じる人がいたり、あてもないのに広ブラ(8)を楽しむ人達が大勢繰り出していたのである。
その後名古屋大空襲(9)で焼け出されて、東区の白壁町へ移転することになるのだが、次第に軍事色を濃くしていく時代背景の中、86歳の今も続けておられるテニス(10)に出会い熱中した。昭和18年、学徒出陣により徴兵された時も西宮の甲子園でテニスの合宿中だった。初年兵教育(11)を受け、通信兵として中国の南京へ渡ることになった時、「同期のほとんどが南方戦線(12)へと赴いたのですが、そこが運命の分かれ道でした」南方組は玉砕となったのである。
無事に帰還された五八郎さんは昭和23年に光恵さんと結婚。27年には北禰宜町(現在の中村区名駅南、笹島交差点付近)に“駅前旅館”である“旅館五月本店”を開業。泉鏡花(13)の『紅雪録』に描かれた“名古屋館”や“舞鶴館”“武蔵屋”乃木大将が泊まった“シナ忠”夏目漱石の『三四郎』に描かれた“角屋”などが軒を並べていた。戦後の復興期とも重なり、これも大いに繁盛したのである。「母もそうでしたが、家内もよく働いてくれました。こんな家業は女将がしっかりしてないといけないもんです」まだ幼いお子さんを抱えたご夫妻はそれこそ身を粉にしたのであろう。「休みなんてありゃしない。しかも朝昼晩と切れ目がない仕事ですから、夫婦で旅行なんていったこともない」そんな中で五八郎さんはモノを持つ、モノを蒐める喜びを深めていった。ライカのカメラ、ロレックスの時計、ベスパのスクーターやBMWのサイドカー、果てはバンデンプラスプリンセスやフィアット500といった車を手に入れる。美術、古美術品にも興味の矛先は向いていった。「旅館五月本店の五月といえば鯉のぼり、鯉に関するモノを蒐めようと思いましてね」棟方志功(14)の鯉の絵から自在鍵の鯉をかたどった木彫まで。「両口屋(15)さんのギャラリーに頼まれて私の鯉のコレクションを並べたこともありました」
さて、ここで奥様、光恵さんのことにも触れておかなければならない。光恵さんは明治、大正、昭和の名古屋を舞台に活躍した茶道具商、横山守雄(16)の四女。横山は益田鈍翁(17)お出入りの業者として大きな商いを成した。「父が病気療養のため、蒲郡の常盤館(18)に長期滞在していた時など、わざわざ鈍翁さんがお連れを率いてお見舞いに来てくれたんですよ。旅館中大騒ぎでした」二人の親密度を知るよいエピソードだ。奥様の思い出話を伺っていると、当時の大物数寄者達のおもしろおかしい行状が手に取るようによくわかる。きっと五八郎さんも奥様から折にふれて聞かされる話に影響を受けたのに違いない。モノを切り取る視線が変化し、そのことで独自の立ち位置を獲得していった。仕事柄、部屋の調度類を揃えなければならないという事情もあったのだろうが、ご自身の心の余裕と光恵さんや横山守男の影響によって五八郎さんはコレクターとしての気質を身につけていかれたのであろう。選び抜く品は次第にハイレベルなモノになっていったのである。
この五八郎さんと横山守雄の血を受け継いだ光恵さんのご次男として哲朗さんは昭和26年に生まれた。三兄弟の中では一番コレクターの血統を受け継いでおられる様子。現在は企業の一員として美術関係の商品開発を担当しておられる。
コレクターとしての哲朗さんのホームグランドは“民藝”だろうか。日本や李朝の工芸品がお好きで、食指に引っかかるモノをひとつひとつ丹念に買い蒐めてきた。「秘色と評される高麗青磁(19)のような男だ、と結婚式の祝辞で恩師から言われたんです・・・」派手さはないが、深く秘めたる魅力を備えているという賛辞である。「これが私の原点。父から貰った高麗青磁の油壺です」以来、病膏肓に入り学生時代からお茶やお花を習って、陶芸にも手を染めたとおっしゃる。「美術好きはどうにも血としか言いようがないですね」
ご自宅にお邪魔すると門をくぐって玄関まで続く階段の脇とか、お庭の隅々に至るまで瓦や石の燈籠、道標が品よく配置されている。玄関に置かれた大きな常滑の水甕(20)を横目で見ながら、正面の和箪笥に置かれた小物をつぶさに拝見。どれもが経年の果てに身に纏った“やつれ”を帯びていて、だからこそ完全ではないがモノの持つエスプリがある。気張って大上段に振りかざす真剣ではなく、武蔵が自ら削った木刀のような、一見なまくらに見えても実は骨をも砕く破壊力を持っていたりする。ナイフというよりは鉈の切れ味といったところだろうか。「いつかは脱サラして、美術を扱う店をやりたかったんですけどね…」すでに美術商の鑑札まで取得しておられるそうだが、定年という一区切りが目の前に見えてきた。この先人生90年の時代も夢ではなくなって、多くの方が仕事をリタイアしたあとの20~30年をどう過ごすか、それは差し迫った課題として個人にも社会にも突きつけられている。ある医学博士が健康の条件を定義して“まずは体が問題なく機能していること。そして心も健康である状態とは、自分が誰かに必要とされているという実感をいつも抱いていられるということ”この言葉の意味は深い。生きていく場面や状況は刻々と変化していくのが世の常だが、我々はどんな場合でもひとりでは生きていけない。必ず誰かの世話になり、誰かを世話することで支えあって生きていく。自分が誰かの支えになっている、自分は必要とされているという実感を持てるというのは、その人に充実感をもたらすに違いない。それが健康で健全な状態であると、その医学博士は説くのである。
五八郎さんも光恵さんも懸命に戦後の日本を支えてきた一市民である。もう“お国のため”というタテマエを掲げる必要はなくなって、堂々と自分のため、家族のためにと言えるような時代になったわけだが、頑張れば頑張っただけの見返りがあるとなると、才覚があって体力のある者はどんどんと仕事を拡大させていく。だが、ある時立ち止まってふと考えるのである。仕事の充実が与えてくれる満足と家族が与えてくれる満足はまた別のものだと。それとも違ってモノが与えてくれる満足感は他では得がたいものだと。まさにモノと心が一如となって人を癒すのである。時代こそ違うが哲朗さんも同じ因子を受け継いだ方だけに五八郎さんと同様の道筋を歩んでこられたのだと推察する。
さて、そんな時代をくぐり抜け、我々を取り巻く事情はまた大きく変わったのである。今や閉塞感が先に立ち、街はどこか元気がない。今のこんなご時世よりも五八郎さんにとっては昭和の激動期の方がずっとおもしろかったのではないですか?という同調を期待した問いかけに、
「そんなことはありません。こんな平和(21)で幸せな時代はないですよ」と、意外なようで、でも至極当然とも思える答えが返ってきた。
了
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