東洋絵画の基本は線である。西洋絵画が線で囲まれた平面的な二次元表現から、三次元の世界を構築すること、つまり面への展開を図ったことを横目に、東洋においては頑なに線が区切る輪郭線で世界を把握しようとした。
例えば浮世絵(1)はその典型である。絵師は輪郭線を巧みに描き分け、小さな画面に時代や地域性や世情といった“ものがたり”を演出して見せる。そこでは様々な絵画的表現も考案され、後に西洋の画家達を驚かせたような様相を呈していくのであるが、モチーフは現実を写していながらどこまでも絵空事の世界に終始する。その点においては伝統芸能であるところの歌舞伎や文楽、はては現代のマンガなども同様の図式の中で成り立っていると考えられる。すなわち作者や演者といった送り手と読者や観客といった受け手の間に、ある種の同意ができていて、両者は現実とは異なる空間と時間を共有し、そのことに共に酔うことができるという経験を積んでいる。作品が虚構であればあるほど、そのスペクタクルにのめり込み熱中できるのである。東洋の絵画は線を駆使して、そういったフィクションの世界をいかにも現実のごとく可視化して見せる伝統を培ってきたのである。
斎藤吾朗さんとは俳句を通してお近づきをいただいた。俳句の場では句友を苗字ではなく俳号で呼び合うならわしから、大先輩である斎藤吾朗さんのことを不遜ながらいつも“吾朗さん”と呼ばせていただいている。この『蒐める人々』ではほとんどの方を苗字にさん付けで表記させてもらっているが、“斎藤さん”ではどうもしっくりとこない。したがって、尊敬と親しみを込めていつものように“吾朗さん”と表記させていただくことをまずはお断りしておきたい。
吾朗さんは1947年生まれ。いわゆる学生運動と高度経済成長をくぐり抜けてきた団塊の世代だ。当時の若者達が将来に漠然とした不安を感じて進路を決めかねていた中にあって吾朗さんは「幼い頃、壁や障子などに描いた落書きをほめてくれた母のおかげで絵を描くことが大好きになり」少年のうちから迷いもなく画家になることを決めていた。長じて26歳の時、あこがれのパリに渡る。パリの町を描いても自分の絵がないことに愕然とした。そこで描くべき主題を探す自分探しの旅に出る。「何もない場所で自分をみつめてくるといいと言われ」アフリカのサハラ砂漠で野宿していたら、盗賊に拉致された。「でも、私のスケッチブックを見た荒ぶる男たちが、お前の気持ちがわかるといって解放してくれたんです」まるで『アラビアンナイト(2)』のお話のようだが、それを楽しそうに、でもいたって真面目な口調で語られる。「言葉を超えた絵の力を実感しました」と。
その後、パリへ戻り、ルーヴル美術館へ。レオナルド・ダ・ヴィンチ(3)の『モナ・リザ』を模写させてほしいと直談判。「模写させてくれなければ侍の子として腹を切る」とまで言って詰め寄った。誠意が通じてシャガール以来50年振りの許可が下り、日本人としては後にも先にも唯一の模写を果たす。「タイミングがよかったんですね。73年の12月に私は模写したのですが、その翌年の74年4月に田中角栄(4)首相がポンピドー(5)大統領に申し出て、『モナ・リザ』が来日することになったんです」日本での大フィーバーを記憶している方も多いはず。「それにしても今思えば当時は連合赤軍(6)が世の中を騒がしていたわけで、素性のわからない髭だらけの日本人青年によく許可を出したものですよね・・・」とお話は尽きない。「お前はむちゃくちゃなやつだ。とルーヴルの副館長からもいわれました。若かったからできたことですね」笑いながらおっしゃるのだが、そこには貫く棒のような信念があってブレていないと感じさせる。若い頃にもきっとそうだったに違いない。それが相手にも伝わるのだろう。
さて、大きな成果を得て帰国した吾朗さんはますます西洋絵画への傾倒を強くしたのかと思いきや「逆に日本人にしか描けない、もっと言えば斎藤吾朗にしか描けない絵を描こう」と決意する。そして「自らを育んでくれた母と母に連なる三河という土地にどっかりと腰を落ち着け、太陽や炎や大地の色であり命を象徴する赤色を基調とした子供の頃の落書きのような絵を描き続けています」と、なった。
吾朗さんのその後の活躍は2006年に上梓された『斎藤吾朗の軌跡』に詳しい。毎年、200号の大作を始めとし、100枚近いタブローを描く。加えてシルクスクリーン版画の制作もその工程の全てをご自分でこなし、これまでに150種以上の作品を発表されてきた。そのかたわらで、独立美術協会(7)会員など各種の公職も数多くこなしておられる。この稿では“吾朗の赤絵”と称され、巷間に評価の高い画風や画業について詳細に論評する余裕がない。それよりも何よりも小生の筆にその責は重すぎる。したがってそろそろ本題であるところのモノ蒐めの話に移ろう。
明治末期から大正を経て、昭和初期に至る時代は民間文化の爛熟期にあたり、江戸ゆずりの旦那道楽が健在で、ひとかどの人物ならば必ず一つや二つの蒐集をしていなければ恰好がつかなかった。ただし金にあかせて骨董品を買い漁るのではなく、経済的価値を無視して、拾ったり交換したり貰ったりしてモノを蒐めることを粋としていた旦那衆がいたのである。近年メディアに紹介されて著名になったりした斎藤昌三(8)、三田平凡寺(9)、淡島寒月(10)といった“知の自由人”と言える人々。近いところでは“とんちン館”の石黒敬七(11)。吾朗さんと同郷の“岩瀬文庫”岩瀬弥助(12)など、歴史の表舞台に登場するわけではないが、確かに文化を担っていた市井の人々もその一員だ。 彼らはその蒐集品の稀少性を競い合うとともに、時に無意味性、娯楽性、俗物性をも重視した。一般人からすればただのガラクタ、屑としてしか顧みられないようなモノに“文化”の匂いを嗅ぎつけて面白がったのである。
吾朗さんには画家という肩書きの他にもう一つ“ガラクタ美術館館長”という顔がある。ここには呉服店を営んでいた吾朗さんのお父様と伯父様のコレクションを基に、吾朗さんが折々に蒐めてきた珍品奇品約3,000種の品が収まっている。「私も何があるのかわからない」状態だそうで、とても収拾がつかないらしい。その一端を見せていただいた。短い時間ではとてもその全貌を知りえるものではない。まさに混沌といった状態である。しかしこの混沌とした営みの結果そのものが“文化”であると言えるのではないか。“めくるめく知のラビリンス”とでも称せるその様子に、誰もがとまどい、呆れ、そしてついには溜息をつき、笑うしかなくなるのである。笑いといってもここで込み上げてくる笑いは、この営みに対するいとおしさ、シンパシーから発生する。人間への尽きない興味と愛がもたらす満足の笑いである。
そういえば、ここまで書いてきて少々後戻りするが、先述の吾朗さんの描く絵画について不意に気がついたことがある。それは画中の夥しい登場人物の多くが笑っていることである。考えてみると古今東西の絵画に描かれた人物の多くは笑っていない。モナ・リザの謎の微笑みとか岸田劉生(13)の麗子が見せるデロリ(14)の笑みなど、ごくわずかにその例を挙げることができるが、それらはまったく別の効果を狙ったものだろう。吾朗さんの描く登場人物の笑いは人間愛からくる笑いだ。
「絵という字は糸を会わせると書きます」確かに。「描くという字も手で苗を植えていくとなっています」なるほど。「絵を描くということは人の縁を紡いで出会わせ、新しい苗を植えていく仕事だと思っています」モノの蒐集に関しても「資料を蒐め整理することが好きですね。だから捨てることができなくなる。どんどん溜まっていく。せっかくだから絵に描いている」つまり絵の中へ閉じ込めている訳だ。人もモノも。そしてその根底には人類愛がある。
絵画も蒐集も吾朗さんにとっては世界やまたは三河という地域や、ひいては自分という人間をどう把握するかといった行為に他ならない。「せめて絵くらい好き勝手なことを描きたいものですね。メチャクチャでもヘンテコリンでもいいじゃないですか。およそ芸術は無駄で無意味な行為だと思います」自嘲気味な言葉には一分の自負もある。「無駄なものや無意味なものをどんどん切り捨ててゆく現代の中で何でも拾っていく人間もいてもいいじゃないでしょうか」吾朗さんのこの姿勢は多分これからも変わらないだろう。真摯で優しい語り口調の根底に確たる信念を感じ取るのはサハラ砂漠の盗賊やルーヴルの副館長や小生だけではないはず。多くの後進の範となって慕われているのはそのあらわれである。
二十世紀の現代美術は大きな展開を見せた。その結果、画家たちは思想家であり、啓発者であり、伝道者であることをよしとされ、時に科学者や技術者のように常に新しい何かを生み出していかなければいけないといった宿命を背負わされてしまった。しかしここに至っての明らかな行き詰まり感は否めない。「絵を描くことって、またはモノを蒐めることって、夢中になれる楽しい作業です」こじつけたような理由はいらないのである。
多分、吾朗さんは今日も面相筆を握り、こつこつと人物やモノの輪郭線を引き、三河の地を、そして世界を切り取って、キャンバスの中に蒐集しておられることだろう。
了
蒐める人々目次に戻る
トップページに戻る
『我ヒトビトノ楽苦ヲ多ク蒐メン~斎藤吾朗(画家)』
服 部 清 人
※印の参考画像と解説文は「RA(ろうさいあいち)」誌、「GAmon」誌、「斎藤吾朗ガラクタ美術館」資料から転載引用させていただきました。