『持たせてもらっている~青木和成(会社役員)』
服部清人
人は自分が生まれる土地を選べない。それでも人は生まれた土地に拘ったり、特別な愛着を持ったりする。誰に教えられたわけでもないのに、多かれ少なかれそんな感情を抱く。ある種のパトリオティズム(1)というやつだ。時にそれが行過ぎたものになると、歪んだナショナリズム(2)にエスカレートする危険も孕むが、多くの場合は健全に働き、郷土の発展や文化の継承の原動力になったりする。それは自分たちの生活空間を安全に確保し、同族が子々孫々まで繁栄していくための本能的な知恵なのだろうか。確かに理屈抜きで郷土のことになると、我々の中に妙な使命感のようなものがふつふつと湧いてくる。国家から表彰されることもないのに、〈守っていかなければ〉という気分になるのはなぜだろう。このことには何か“大きな力”が働いているように思えて仕方がない。
梅雨明け宣言が出そうな七月後半の大変蒸し暑い日に、指定された仕事場へお邪魔した。今回の主人公である青木さんは昭和43年、名古屋市緑区鳴海の生まれ。お仕事を中断して、汗を拭きながらいつもの少年のような笑顔で迎えてくださった。株式会社青木塗装工業所の二代目経営者というのが肩書きである。お父様の正昭さんから引き継いだ会社を現在は弟さんやたくさんの従業員の方々とともに切り盛りされている。工場地帯の一角に社屋があって、そのすぐ脇には扇川が流れており、「昔は沢蟹をとって遊びましたね」とのこと。扇川は河口にいくにしたがって天白川と合流し、そのまま伊勢湾に流れ込むのだが、「それはあの新幹線(3)の鉄橋のもう少し向こうですね」と、青木さんが指差したその向こう側で、実は小生は育った。10年のタイムラグがあるし、その“新幹線の鉄橋”というのがテリトリーを分ける一本のラインとなっており、その先へ踏み込むことは大げさなようだが、異郷の地への冒険に乗り出すような決意が必要だったから、少年時代には滅多なことでその境界線を踏み越えることはなかった。縄張り意識のようなものがその頃からすでに働いていたのだろう。「どこかですれ違っていたかも知れませんね」と言われたものの、その可能性は低いように思われた。時間と地域。この二つの要素が結びついた時にのみ、我々は邂逅の機会に恵まれる。人と人とが出会えるのは多くの偶然が重なって、見事にタイミングが合った時だけだ。人とモノとの出会いにも同じようなことが言えるであろう。
青木さんがモノを意識するのは小学校6年の時、それは不意にやってきた。「社会科で原始時代の授業があり、放課後にクラスの大半の男子が南区の見晴台考古資料館(4)へ出かけました。皆、移植ゴテで土器を掘り出そうとしたのですが、子供のすることなので、まともには出てきません。飽きてしまった僕は地面に落ちているカケラを偶然拾い上げました。それは弥生土器のカケラで・・・」考古資料とのファーストコンタクトだった。「弥生時代の土器片を自分の手で採取できただけでなく、僕が拾ったものが一番大きかったのと、唯一文様のある土器片だったので学芸員の先生から褒められたんです。もううれしくなっちゃいました」発見の喜びと、自分の成しえたことが評価される満足を同時に味わってしまったから、「もうはまってしまいました」青木さんのその後のベクトルはここで定まった。
それからは県内外の遺跡で矢尻や土器片を採集したり、糸魚川で翡翠などの鉱物(5)を採掘したりして、学生時代から今にいたるまでその趣味は継続し、入手の際のエピソードとともに、青木さんにとってはかけがいのない蒐集品としてコレクションの一角を占めている。
仕事をするようになって、お小遣いも増えるとますます行動範囲も広まる。ある時、大須観音近くの骨董屋さんの店先に矢尻が飾ってあり、「こういうものが売り物になるんだ」と驚いた。それから少しずつ骨董屋巡りをするようになる。どこの店でも若い客は珍しく、中には土師器(6)の小壷をくれたりする主人もいたりして、親切に受け入れてくれたものだから、ますます骨董の面白さにのめり込んでしまった。「骨董屋に集まる変わった人達が繰り広げる骨董談義が本当におもしろかったのです」元来、凝り性で集中力のある方だったから、それからの展開は速かった。「最初は伊万里を蒐めましたが、次第に郷土の国焼や釉薬の美しさから御深井焼(7)なども蒐めるようになりました。同じ染付磁器でも伊万里と違って瀬戸のものはまだ安くて買いやすかったし、調べていくと生まれ育った鳴海や大高といった地域にも関連があり、これがなかなかおもしろくて・・・」つまり、「またはまってしまいました」その後の蒐集の方向性がこの段階で定まり、今に至るという訳だ。
「念ずれば通ずってよく言いますが、あの言葉好きだなあ」と、青木さんは言う。そういった機会が何度となくあったからだろう。何事もまず意志がなければ事は始まらない。それは単に思い付きだったりするが、それでもそのことを強く思うことで、また長く思い続けることで次第にくっきりとした輪郭が浮かび上がって、そこに中身が詰まって形となっていく。大切なことは強く長くめげずに思い続けることである。養老孟司の『唯脳論』(8)では〈いまや都市空間のほとんどのものは、人間の脳が作り出したものだ〉と定義する。巨大な建造物も複雑な金融システムもすべて人間の脳が作り出した産物であるというわけだ。すべては人間のこの小さな脳という肉塊の想像力によって具現化されたものばかりであると言うのである。ただし、事はそんなに簡単じゃない。ドラえもんのポケットのように何でも思えばホイッと出てくるってものじゃない。ああでもない、こうでもないといった喧々諤々の議論の末、経験と技術が相俟って試行錯誤の結果として、ひとつの形を成すものだ。まずは最初に意志ありき。そして最後まで意志ありき、である。思い続けることで、念じ続けることで事は成就する。
また青木さんは会話の中で「好奇心」という言葉を何度か使われた。発想の端緒は好奇心である。不思議だなあ、おもしろそうだなあ、と感じた時が入り口に立っている瞬間である。しかし時にはもう一歩がなかなか踏み出せない時もある。ほとんど買う気になっているのだが、もう一押し自分を納得させる何かが欲しいときなど、青木さんは店の主人に「あと一言セールストークをしてくださいよ」と言うらしい。飛び込もうとする意思は固まっているのに、好奇心はすでにGO!を出しているのに、あと一押し、背中をドンと押してくれるような一言をお願いしますよ。ということらしい。たとえばそこで、〈この品は君の手元で守られ続けていくべきだ〉なんて言われたら、俄然使命感が湧いてきて、よし!という気になるのだろう。蒐集という行為に理由などない。衝き上げるような情動があるだけだ。それはパトリオティズムと称する郷土愛と同様に自然の泉のように湧いてくるものである。
目標が定まると動きにも無駄がなくなる。青木さんもフットワークは軽いほうで、そうとなればあちらこちらへ出かけていき、空振りもあったが、ときめくような出会いにも恵まれ、次々と蒐集品はその数を増やしていった。その内に個人が持つものではないような貴重な品を入手する機会も巡ってきて、今や瀬戸染付に関しては知られたコレクターとなった。愛知県陶磁資料館(9)やINAXライブミュージアム(10)の企画展に蒐集品を貸出ししたり、2007年に瀬戸市美術館(11)が開催した『瀬戸染付の全貌』展には17点もの品を提供しておられる。「美術館とか博物館というのはそもそも観させてもらいに行くものであって、そこに自分の持っているものが恭しく陳列されて、皆が観てくれるなんて、なんだかうれしくなっちゃって」と、少年の日に弥生の土器片を手にした時と多分同じような笑顔で、その時の図録を見せて下さった。そんな調子だとますます火がついてしまいますね、という問いに「逆に何だか一段落付いてしまったような気もしています」と、ちょっと意外な答えが返ってきた。「十年前に結婚して、子どもが5人生まれました。国から表彰してもらわなきゃね。なんて冗談を言われています。一番上が小学校4年生です。これからはしっかりと脛を齧られます。おかげで骨董漁りはしばらく凍結です」骨董に生きがいを見出すより、子どもたちの成長のために太い脛を差し出すことのほうがよっぽど健全だ。「それで、今は代償としてまた糸魚川、秩父、瑞浪とかに石採りに出掛けています」それなら奥さんや子どもたちも旅行をかねてついてくるのでは、と問えば「最初はそうでしたが、最近は“一人で行って”と言われています」優れた若手コレクターも家庭内ではどうやら片身が狭いらしい。
先史の遺物を愛でて、先人の業績を顕彰し、先代から受け継いだ仕事を継承発展させる。自ら築いた家族を守り、未来に自分の痕跡を繋げていこうとする。それらのことはどうも理屈ではない。人間を始めとした生き物にはそんな仕組みがインプットされているようだ。勿論、個体によって程度の差がある。選ばれし者はその役目を意識することなく、結果として“大きな力”の意志に添うような行動をとる。青木さんが最後に「持たせてもらっている」という言い方をされた。そしてまた例の少年のような笑顔だ。“大きな力”はそのような役目を負わせた者たちに喜びという代償を与えてくれている。
了
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